
短編小説「ケーキの味」
大学に通うため、都内に一人暮らしをはじめてから3年。
毎年一度は実家に帰っているものの、家族に顔を合わせるだけで、すぐ戻ってしまっていた。
私は今年も変わらず、家族に別れを告げ、戻ろうとしているときだった。
『またしばらくなんだから、近くでも歩いて回ったら? 商店街とかさ…』
母は背中を見せたまま、そう言った。
「そだね。ちょっと行ってみる」
そんな予定はなかったが、母のひと言で急に街の変化が気になった。
こうして、私は街を見て回っていた。
懐かしいなぁ。
よく友人と遊びまわった公園。
足を骨折して入院した病院。
初デート以来、一度も行っていないおしゃれなカフェ。
今となっては、すべていい思い出だ。
私は続けて、駅前の商店街を歩いていた。
ここはよく、母と一緒に買い物に来ていた場所だ。
しかし、当時の面影はかなり薄い。
昔ながらの店は、ほとんど閉店してしまい、その場所には新たに大手チェーンが入っている。
寂しさに更けながら歩いていると、一つの店に目が留まった。
ああ、懐かしい。ケーキ屋だ。
すっかり忘れていた。
私は毎回、この店のケーキを買ってほしくて、母の買い物について行ってたんだっけ。
そんなことを思い出していると、体は勝手に店へ向かっていた。
『いらっしゃいませー』
入り口の軽快な鈴の音と共に、優しな店員の声が耳に届いた。
『あれ? 先輩!?』
カウンターの店員が急に話しかけてきた。
それは、高校でも仲の良かった後輩だった。
「あ~! なつかし~! 元気してた? ここでバイトしてるんだ~!」
『そうなんです! 先輩も帰ってたんですね!』
「うん、まぁ一瞬だけで、またすぐ戻っちゃうんだけどねー」
『そうなんですねー…』
会話を弾ませていると、奥から別の店員が歩いてきた。
『あら、誰かと思ったら、懐かしい子が来たねぇ』
『店長、先輩のこと知ってるんですか?』
『まぁ、小さい頃だけどね』
その店員は私がまだ子供の頃、ずっと「おばさん」と呼んでいた、「その人」だった。
『よく、覚えてるよ。だって、毎日、ガラス越しに顔を張りつけながら、しばらく覗いて帰っていくんだもん。悪いけど、店のみんなで笑ってたよ』
覚えがない…私がそんなことしてたなんて。
でもこんな話、後輩の前で、してほしくなかった。
『えー、先輩、かーわいっ プフッ』
私は拳を強く握った。
『でも、お母さんと来たときは、すっごくいい顔で喜んでてね』
おばさんの言葉に、私の頬が熱くなるのを感じた。
「そんな...覚えてるなんて...」
『そりゃあ覚えてるよ。あなたの笑顔を見るのが、私たちの楽しみだったんだから』
私は恥ずかしくて顔を上げられなかった。でも、なんだか嬉しい。
『あ、そうだ。なんか懐かしいこと思い出して嬉しくなっちゃったから、特別にケーキ持ってく?』
「え、悪いですよ」
『いいの、いいの』
そう言っておばさんは、私が子供の頃、愛してやまなかったブルーベリーのショートケーキを3つ持たせてくれた。
『お代はいらないからね』
『いいなー、先輩』
「本当にありがとうございます!」
『うん、じゅあまたぜひ、ウチ寄ってってね』
「はい!」
おばさんは手を振って、裏に戻っていった。
気が付くと、ガラス越しの外は薄暗くなりかけていた。
「じゃあ私も、もう帰ろうかな」
『先輩、もう行っちゃうんですか…?』
「うん、だいぶ遅くなっちゃったし…」
『先輩、絶対また来てくださいね! 私ずっと働いてますから!』
「うん、じゃあまた明日、ケーキ買いに来るね!」
『え?』
後輩の驚いた表情を横目に店を後にした。
戻るのは今日じゃなくてもいい。
私は重くないはずのケーキ箱を両手で抱えながら、家へ急いだ。
駆けそうになるのを必死に抑えながら。