短編小説「風鈴の奏」
祖母の家の縁側に座ると、風鈴の音が聞こえてきた。
夏の終わりを告げるような、儚げな音色だ。
「ただいま」
『あれ、おかえり。また、珍しいね、さぁ上がって上がって』
祖母が縁側に顔を出した。
しわがれた声に、懐かしさを覚える。
『お茶を入れるから、少し待っていてね』
祖母は台所へと消えていった。
風が吹くたび、風鈴が涼やかな音を奏でる。
目を閉じると、幼い頃の夏休みが蘇ってきた。
宿題をさぼって、縁側で昼寝をしたこと。
祖母に叱られそうになって、慌てて逃げ回ったこと。
お昼にそうめんを一緒に啜ったこと。
『はい、どうぞ』
目を開けると、祖母が冷たい麦茶を差し出していた。
「ありがとう」
一口飲むと、懐かしい味がした。
『最近、どうなの?』
祖母の問いかけに、言葉が詰まった。
会社でのストレス、人の悩みなど、言いたいことは山ほどあるのに、どれも口に出せない。
「まあ、なんとか」
祖母は黙ってうなずいた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
『私も若い頃は、いろいろあったのよ』
「へー、ばあちゃんにも?」
『ええ。仕事だって、人間関係だって、家族のことだって、悩みばかりだったのよ』
風鈴の音が、祖母の言葉の合間に響く。
『でもね、辛いことばかりじゃなかったの』
祖母は柔らかな笑みを浮かべた。
『小さな幸せがね、いつも私を支えてくれたの』
「小さな幸せ?」
『ええ、今もその一つね。来てくれてありがとね』
太陽はゆっくり沈み、空は橙が混じる青になっていた。
「もう少しここにいてもいい?」
『ええ、いいのよ。ゆっくりしていきなさい。夕御飯も食べてく?』
「じゃあ、お言葉に甘えて」
『支度するから、ちょっと待っててね』
祖母はそう言うと、再び台所へと消えていった。
「ありがと」
自分にしか聞こえないぐらいの声で呟いた。
明日からまた日常に戻る。
でも、今はこの瞬間を大切にしたい。
小さな幸せ。
それは、こんな風に過ごしている時なのかもしれない。
風鈴が、もう一度優しく鳴った。