短編小説「最後列右側の席」
猛暑の中、ネクタイを緩めながらバスの到着を待っていた。
普段は帰宅ラッシュに飲まれ、長い列に並ぶ必要があるが、昼間だとこんなに人がいないものなのか。
今日はまだ、外が明るいうちに帰路についている。
バスに乗り込むと、車内は驚くほど空いていた。
久しぶりに座れる喜びを感じながら、何気なく最後列右側に腰を下ろした。
その席からの車内の眺め。
窓の外をゆっくりと流れていく景色。
その時、異様な懐かしさが頭の中に一瞬で広がっていった。
あれは小学生の頃。
俺は家が近かった女の子と、登下校を共にしていた。
そして、バスに乗るときも、決まって二人でこの席に座っていた。
彼女が窓側で、俺が通路側。
二人で近く肌を寄せ合っていた。
彼女とはいつも一緒だった。
学校へ行くときも、帰るときも。放課後も休日もずっと。
傍から見れば、俺らは仲のいい幼馴染だった。
しかし、当時は気付かなかったが、今ではわかる。
小学生のその時から抱えていた彼女への気持ちは、間違いなく恋だった。
中学に進級しても、俺らの関係は変わらなかった。
ただ、俺は彼女を、よく目で追うようになっていたかもしれない。
窓に頬を近づけ、外の景色を眺める彼女の横顔を、自分も景色を見るふりして何度も盗み見していた。
クラスが違っても、部活が違っても、俺らは毎日一緒に登下校していた。
バスの、この座席に変わらず並んで。
俺らは同じ高校に入学した。
高校では俺らの関係をイジる友人がいた。
『お前らなんで付き合ってねーの?』
『美男美女カップルだよねー』
『若年夫婦!』
『どうせ好きなんだろー!』
俺はその度に、
「あいつとはそんなんじゃねぇから!」
と答えていた。
それは、ある意味本心だった。
彼女が好きな自分、をその言葉で必死に騙していたのかもしれない。
でも一番は、フラれるのを恐れていたせいだ。
今までの幼馴染としての関係性がなくなってしまうんじゃないか、一緒にいられなくなるんじゃないか。
そう思うと、動き出せなかった。
ある時、友人とのやり取りを彼女に見られた時があった。
「あいつとはそんなんじゃねぇから」
その時の彼女の表情が忘れられない。
確かに友人と一緒になって笑っていた。
笑っていたけど、違う。俺の知る彼女の笑顔じゃなかった。
その時気付いた、彼女も俺と同じ気持ちなのかもと。
でも俺はヘタレだった。駄目な奴だった。
バスは変わらず、同じ席に並んだ。
でも、二人の間には今までは存在しなかった隙間があった。
彼女の位置は変わっていない。
俺が窓側に距離を詰めれば、その隙間は埋まるはずだ。
当時の俺は、
「二人とも体がでかくなったし」
とか言い訳をしていた。
それ以来、俺らの肩が触れ合うこともなくなった。
彼女はいつも変わらず窓の外を眺めていた。
俺は一緒に外の景色も見れなくなった。
ついに俺は、卒業までその想いを彼女に伝えることはなかった。
卒業の日の帰り、俺らはバス停で待ち合わせをした。
彼女とバス停は西日に晒されて、真っ赤に染まっていた。
『待ってた…のに…』
彼女は小声でつぶやいた。
俺は当時、その言葉を聞き逃していた。
二人で最後のバスに乗った。
席は小学生の頃から変わらない、最後列右側。
でも、二人の間には確かな距離があった。
彼女は外を眺めているが、俺は車内を見渡していた。
『早いよね。もう大学生だってさ、私たち』
「ああ…」
俺はそれ以上の言葉を見つけることができなかった。
言いたいことは山ほどあったのに、どれも喉元で止まってしまう。
『私ね...』
そう言いながら彼女がこちらを向いているのがわかったが、俺は目を合わせることができなかった。
『ごめん...何でもない…』
その後の車内では一言の会話もなく、バス停に到着した。
二人で歩いて、彼女の家の前に着いた。
『また会おうね…ばいばい…』
「うん…じゃあね…」
これが彼女と交わした最後の言葉になってしまった。
気が付くと、バスは降りるべき駅を通り過ぎようとしていた。
急いで”とまります”ボタンを押し、バスを降りた。
俺は去っていくバスの背中を、その姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。
辺りは、あの日と同じように西日が街を赤く染めていた。
彼女の最後の言葉が頭に蘇る。
あの時、もう少し勇気があれば…。もう少し正直になれていれば…。
そんな後悔が、今でも俺の心の中で渦を巻いている。
あの子は今頃どうしているのだろうか。
夕暮れの街を歩きながら、俺はポケットに入ったバス定期券を強く握りしめた。