短編小説「己の目」
私は生まれてこの方、人の目を見て話すことができなかった。
他者の視線は私にとって耐え難いものであり、それを避けるために常に俯いて生きてきた。
学校では『変な子』として疎外され、職場でも『異質な存在』の烙印を押された。
しかし、私にとってそれは唯一の術であった。
他人の目に映る自分の姿を想像するだけで、胸中に言い知れぬ空虚感が広がった。
私の人生に転機が訪れたのは、ある雨の日のことだった。
傘を顔の前に掲げるように差し、水たまりを避けながら歩いていると、突然誰かと衝突した。
驚いて顔を上げた瞬間、私は言葉を失った。
目の前には、視力を失った老人が立っていた。
白杖を手に、戸惑いの表情を浮かべている。
そして、その目は私を捉えていなかった。
「申し訳ありません」
生まれて初めて、相手の顔を正面から見つめることができた。
しかし老人は穏やかな微笑みを浮かべた。
『いえいえ、私こそ失礼しました』
その時、私の内側で何かが大きく動いた。
長年背負ってきた重圧が、僅かながら軽くなったような気がした。
やがて私は、自ら築き上げた殻に閉じ込められていたことに気づいた。
その殻は私を守るものではなく、私を縛るものだったのだ。
そして、その拘束から解放される方法は、意外にも自分の中にあった。
時は流れ、私は今、視覚障害者支援のボランティアとして活動している。
かつての恐怖は、今や私を導いている。
人の目を避けてきた私だからこそ、理解できることがある。
そして、彼らと共に、自身も前を向いて進めるようになった。
人生とは皮肉なものだ。
他人の目から逃げ続けてきた私が、今では多くの人々の目となり、世界を案内している。
しかし今、私の目が見えるのは、目の見えない彼らに他ならない。
人は皆、独自の物語を生きている。
そして時に、その物語は他者の物語と交差する。
その瞬間こそが、私たちの契機となるのかもしれない。
私の内なる変容は、今も静かに進行している。
かつて私が脱ぎ捨てた仮面は、今や力となった。
多様な視点が交錯する世界の中で、私は今でも、到達地を模索している。
そこには、もはや以前のような深潭はない。
ただ、未知への憧憬と、自己を正視する静謐な喜があるのみだ。