2025/01/13 成人の日に寄せて
思えば実に間もなく3回目の成人式。20歳ベースで。
社会人としての自覚と責任、なんていうけど、今やその社会全般に先達が残した「自覚と責任」も変化している。三まわりして時はバブル世代の「新人類」からデジタルネイティブな「Z世代」まで。
もういい加減に私の世代は高校の同窓会のテーブルでは老人会扱いである。
功なり名を得て得意満面、あるいは左手薬指の指輪をひけらかす同級生ばかり。人を使う経験もなく、病気に苦しみ、生き恥を晒してへべれけで帰宅した同窓会の夜。
50越えて独りじゃ、といって私の住所とメアド、電話番号を聞いた同級生からは、嫁さん候補の連絡はなしのつぶてだった。その人にはもう何も期待していない。ただの笑いものだったと思う。
それからまもなく返信先のない家庭人の音信不通だった幼なじみからの手紙が届きました。故郷に疎まれ時代を滑り落ちる日々の結果でした。
そこで老婆心ながら新成人の皆様にぜひお願いです。どんなに酷い目に遭った同級生がいても居場所を残してあげてください。パートナー探しにも仲間外しはやめてほしい。人を踏み台にした人生の味は手放しの喜びではなく苦いままです。死ぬまで後悔すること必定です。つまり地域のいじめ、仲間外しには互いに不幸しかないのです。
不幸の味だけが社会人の味なら、それはそれで素直な心ではなくその後の自他を大きく裏切る歪みなのです。「そんなものさ」で割り切る傍観者も一生、苦しむこと必定です。
子に恵まれ孫に恵まれても、大切な何かを見落としていませんか?
ある人は見落としたそれを良心というでしょう。悪い心だけ相続されるのです。
私はこの歳になって思うのですが、繋がりや絆以前の話で、他人の不幸は蜜の味なんですよ。もう居場所は今住む、故郷を離れた現在地しかありません。このまま孤独死を選ぶか、年の差婚をするか?
同級生、同世代がそれぞれの世界でキラキラしているのを見て反吐が出る思いです。努力と忍耐が美徳な時代はもう、私の同世代で十分すぎる。新成人に望むものは寛容と包摂です。
《全体が幸せにならない限り個人の幸せはありえない》
法華経の信者、宮沢賢治もそういっていました。
「現世の安穏ならざる事をなげかざれ」
2025/01/13 ここまで