2024/10/29 悩みの種とは?
ミーコの彼は……
《自分は自分のものではない、我が子は我がものではない……》
この記事を読みながら、スピッツの『ミーコとギター』を思い出していました。
♪ミーコの彼はミーコの彼じゃない 誰も知らない
一番最初の引用では、「パーリ経」というお経の和訳が引っ張ってきてあります。断っておきますが、私も詳しいことは分かりません。
ただ、ミーコという人も、その彼という人も、それぞれの意思に叶って生きている、生かされているのだろうか?そして、人の意思とは?
そんなことを私は考えさせられました。
親の行方子も知らず 子の行方親知らず
これは、私の母方の郷里、秋田なのですが一部地域で葬儀のとき集まった人達が教わるともなく口にする、ご詠歌のようなものの一部です。
悲しいなあとは母の一言。祖父の葬儀の時でした。何でも「佛所護念会」とか聞いたのですが私にはよく分かりません。(調べましたが日蓮門下会ではないようです。 https://nichiren-monka.org/organization/)
じつは最近、母方の郷里から私のいとこの子が東京に飛び出してきたそうです。よくよく聞くと、入念な準備をしてきたのに、おばさんたちの言い様は当初、ずいぶんな物でした。やれ住所がないだの、やれ保証人がなければ住所も確保できないだの。
私も歳が近くて、障害者雇用という不安定な立場にある分、その気持ちは痛いほど分かるつもりなのです。
おばさんたちには、その子はハロワとか職業訓練給付とか経験して、不動産屋さんで保証会社をつけてもらってきているはずだよ、と説明していました。その通りやっていたということを知って少し鎮まったようです。
思い通りにならないなら……
何を言いたかったか、最初の話につなげると、いとこの子についておばさんたちは自分達の力や経験で説教すれば(!)、いくらでもどうにでもなる、と思っていた節があったと思うのです。
でも、私自身この間母から聞いた話を総合しても、1,2歳の頃から「疳(カン)が強く」、少しの刺激でも嫌がり走り回ってはケガをするという子どもでした。少し調べてもらえば分かると思いますが、カンが強いというのは必ずしも発達障害ではないそうです。
母についても私のことはどうにもならず、私自身についても自分を周囲に合わせて律したくても思い通りにならない。健常者として過ごしていたかったのに、様々な原因で精神の病を得て障害者としての日常になっている。
これは誰もが自分のことを望んでそうしようと思ってしているわけではないですよね。逆に、そうしたくなくてもそうなってしまっている。
望むようにしたいから苦しむ。それは認めてもらえると思います。
高校の数学の担任
この地球上には様々な思想や信条を持っている人々がともに暮らしています。ある人は、神様がいてその望みの通り生きるというでしょう。ある人は、自分の望みを神様のような存在に聞き入れてもらって生きている、というでしょう。
私は高校生の頃、数学の担任が当時の学年の頃受け容れがたい思考の持ち主で、苦しんだ覚えがあります。私が気になる異性がいてそれを片時とも忘れてくれるように、「自分というものはないんだよ」といいつつ、私のことが好きだという同級生を引き合わせようとしたのでした。
でも、どう付き合ったらいいか分からないままお友達ということでうやむやになってしまったのです。それから私はいろんな人を好きになりましたが、関係は友達以上にならず、自分の強すぎるこだわりというものがあったのかなと振り返ってみるときがあります。このこだわりというものがもしかしたら、「思い通りにならない」という苦しみの原因だったのかもしれません。
だからといってこれからどうにかなるかというと、それも自信はありません。
それから二年、職員室でその先生とお話をしているときのこと。まわりに同僚が一人もいなくて、かかってくる電話に対して「いないよ」と語り続けるのです。今にして思えばそれが、その先生の一貫した《哲学》のようなものだったと私は思います。
人のプロフィールを見ていると
思えば私を含め、人という存在はその行いからして、「欲」のかたまりゆえに苦しんでいる、そう思います。
プロフィールで、いろんな事が書いてありますよね。あれをよくよく見ると、「私はこうなんだ、《でも……》」という気持ちがみてとれないでしょうか。
独身、障害者、無職……こう書いたとしますよね。これが本当なんだけど、イヤなんだよね、というのも欲です。
他の人で、既婚、健常者、月収何十万円、子ども何歳何人……こう書いてあれば一見幸せに見えますが、《これは事実なんだけど逃げたいんだよね、逃げられなくて苦しいこともある》というのもあれば欲です。
いや、一時的な逃げ場があれば良いというのも正論です。でも、見方を変えられなければまた苦しむのですよね。誰かに話して一回で悩みが尽きることもないのは経験上よく分かります。いや、或いは悩んでいるゆえに自分が愛おしいところもあるかも知れません。
宗教によっては悩みを除いてと嘆願する人もいれば(新約聖書の「主の祈り」のような)、悩みそのものが生きている証拠なのだ(仏教でいう、一切は苦なのだから)という見方もできるでしょう。
まとまりませんが
ありのままとは苦しいですが、苦しいから自分が存在できる、矛盾しているようですが、上京してきたいとこの子についてのどたばたを見ていると苦悩の種は日常的に存在することを感じます。結びにならず申し訳ありません。
2024/10/29 ここまで