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誰も帰ってきていないからわからない
こんばんは🙏
お疲れ様でした。
大切な恩人を亡くしたとき、あなたはどう感じてどう変わったきたのでしょうか?
私の体験を少しばかりお話しします。
その前にひとつだけはっきりしていることは、その相手はいってきます、ではなくいくよ、で二度と会えなくなってしまったことです。
今も四十九日法要前の、上人さん(他宗では和尚さんに相当)のひとことが忘れられません。
「お父様が成仏できるように毎日祈っていましたか?お父様に頼って自分たちの事ばかり考えていませんでしたか?」
その当時は動揺しておりました。
祈りとはなんだろう?
自分のため?
相手のため?
まったく首が回らないまま、三回忌、七回忌、施餓鬼会と回を重ねるうちに宗派について学ぶことが増えました。
最近ではお寺さんが真夜中に読経とトークを繰り広げるインターネットラジオ番組にも巡り会えています。
亡くなった恩人に祈る事、困っている人に尽くすこと、それらは巡り巡ってそうする私たちのもとに功徳として返ってくるそうです。
つまり、命ある限り今をイキイキとして生きることは、ただ単に息をし続けること以上の修行になるそうです。
亡くなった人がどうなったか知る由もありません。でも、今こうして生きていることは否定できない事実です。人によっては、仏になるために修行しているとも言います。何故なら人に生まれてきたのも因果があるからという人もいます。
因果というなら、ペットとして飼っている犬について話すと、先代の供養では、「汝是畜生発菩提心」というとおり犬も成仏できるというのです。難しい話はしませんがそういうことです。
さっきの話に戻ると、はっきり言って私は父に怒りとか依存とかそういう感情ばかり持っていました。
しかしいざ一人で外の世界に立ち向かって分かったのは己の無力さと父の大きさです。
そこでまた出会ったのが恩を知るということです。毎日朝晩、私は仏壇の父と先代の犬にお題目とあいさつをして、いってきます、ただいまをしています。
私にとってのミッシングリングとは、報恩の心だったように思います。
参考
2024/01/29 ここまで