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人生を選ぶのではなく人生に選ばれるという真実
決めたではなく決まった
前置きする。私は未婚である。夫の経験はない。
「まだ」経験はない、というには歳をとりすぎた。パートナーがいた試しもない。
さて、私が障害者雇用先が決まり、就労移行支援事業所から出ることが決まったときのことだ。
私は例の如く口ごもっていて上長に報告したところ、決めたと伝わったらしく怒られた覚えがある。頭の中では、決まりましたと言っていたのに、伝わらなければ仕方ない。
たぶん、上長の脳内変換としても、決めたと宣言する利用者が以前にも少なからずいた経験則上と推測も不可能ではない。
つまり、決めたというのは自分が決めたということであり、主語は自分である。決まったというのは自分以外の意思が決めたことであり、主語は自分ではない。障害の特性上、自分の世界ばかりみえる障害も存在することになる。
結婚とは決めるもの決まるもの?
物事が決まる意思決定のプロセスには、主人公である自分(達)以外にいろんな人達が絡んでくる。以上は障害者雇用についてであるが、一方、それ以外の人間関係はどんなものか。私の人間関係に局限していえば恨んだり恨み返したりといった繰り返しで、恵んで恵み合うといった発想に乏しかった。
それが、ここまで一人きり(パートナーさえいないという意味での)生き方である。
交際、結婚も決めるものではなく決まるものなのだろうか。プロポーズの決まり文句でも、主語は「私たち」である。
しかし、それ以前の出会いとは(出逢いが次の段階を言い表すとして)よく、直感的というとおりこれは主語が「私たち」ではない。むしろ、周囲の人々が協力してもたらした直感でないことは確かである。
そこに超自然的な存在が決めてくれた、つまり決まりました、と美しい言い方をする、慎ましい言い方をする人もいるだろう。なかには両家の都合、本人同士の欲得尽く、などとやはりエゴの領域という場合もある。
むすびに:人生は錯覚か?
こうしてみると、ライフイベントを通して見ると障害者雇用ほど自由の利かない領域はないものだと思わざるを得ない。そうしたなかから手に入れる自由とは、与えられるというよりも勝ち取るというかがやきに満ちて見えてくるのだが、錯覚だろうか。
2024/01/10 ここまで