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2025/02/05 義務と建前と本音(実際):独りか独りでないかそれが問題だ

 おはようございます🙏

 この世に生まれ落ちてたった一つし損なった事があるとすれば、それは妻となる人を見つけ自分の子孫を残す営為だと思う。

 その他のことについては、いまは障害者雇用に落ち着いて状態が安定していることを勘案すれば、概ね良好、悔いはない。

結婚は義務?本当に必要?現代社会における夫婦関係の多様性と、結婚にまつわる幻想について考えさせる記事です。 #note

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義務とは?

 さて、あらゆる物事には義務という建前と実際という本音がある。
 義務から見ていくと、親には子を扶養する義務があるし、夫婦には共助の義務がある。すべての国民に労働の義務があるように。

 ところが、原則には例外もあるように、義務にはそれなりに逃げ道もある。明治時代に書かれた書物をひもとく。すると、現代にも通用する内容が立ち現れる。
 夫婦関係に限って言えば、夫が妻に家の中のことを任せきりにして、衣食住を差し置いて仕事に命を捧げる封建時代の夫像があったらしい。時代劇で言えば昼行灯の中村主水みたいな存在であった。出仕するときに妻が火打ち石を打ち無事を祈るおまじないをするシーンが思い浮かぶ。

戦後の夫婦像

 戦後に至っては、従前の家父長制を脱して核家族化している。民法の規定により夫婦は共助義務を負うとある。

 法律上はそうなのだが、親子関係が多様化するように、コアな部分を残して夫婦関係も多様化しているのではなかろうか。

(精神)障害者と結婚の困難

 殊に障害者を含む婚姻関係は様々な議論を呼ぶ。封建時代のようにギブアンドギブの関係を厭う人もいる。

 ここまでくると百家争鳴である。
 親子関係は選べないけど後天的に関係が多様化することもありうるのが現代でもある。
 選べるか選べないか分からないが(それも多様性のなせる業)夫婦関係も持とうとして持てるものでもないし、持てないと思っていても持たざるを得ない人もいる。

独りでいる自由もある

 少なくとも親子関係には扶養する義務があるが、幸いなことに独身者に対して結婚する「義務」は存在しないと思われる。職業選択が自由であるように、結婚に同意できる伴侶を見つけるも見つけないも自由であるはずだ。

 親子関係を改善したい、良くなったというのは体験上分かる。
 でも、良い親子だねと嫉妬することはなくても、結婚できて良いねと祝福でききれない場合だってある。
 価値観が違うのでひとりぼっちでもいいや、と開き直るのも自由だが一方で人間関係がそもそもの所うまくいかないから生じる妬みというのも存在する。

多数決という数の暴力と幻想

 多数決の幸せに押し切られて生じた孤独感も否定はできない。よく○活といったりするが、言い得て妙である。○に入るものは多数決によってもたらされると言い換えても差し支えないだろう。「婚活」なり「妊活」なり、そこには法律に規定されない「義務感」が空気感として支配的なのである。
 婚活産業を逆恨みするのではなく、この空気感が呪わしさの根源ではないか。

 誰もが誰かの子どもであることは事実であるし、人の親になれてもなれなくてもいい。
 法律で規定されるのが建前(現行憲法のプログラム規定はその最たるもの)だとすれば、大多数という幻想に近い民意は本音なのだろう。
 実態のない幻想に押し切られて結婚するとしたら、それこそ人生の不幸である。つまり現在この国でいう流行とはバブルみたいに実態のない幻想、空論なのである。

おわりに:貴方の人生を大切に

 幻想や空論のために自己肯定感を犠牲にして満足か?そうでないとしたら、独りでいても二人でいても幸せを感じられなければ意味がないのである。

まとめ

 婚姻関係や親子関係には義務がありますが、それには逃げ道もあります。夫婦関係は封建時代から多様化してきました。障害者の結婚にも様々な意見があります。親子関係は選べないけれど、夫婦関係は持つ必要はありません。結婚には義務がなく、自由に選べます。親子関係や結婚には幸せを感じることもありますが、価値観の違いや人間関係の難しさから妬みが生じることもあります。多数決による幻想や義務感に押し切られて結婚することは人生の不幸です。幸せを感じることが最も大切です。

2025/02/05 ここまで


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