秋と北海道⑤
何事も芯が入っていたほうが良い。
仕事でもプライベートでも人生でも写真でも。
RAWデータでどうにでも色が変えられる現代において、写真の現像はかえって難しい。そこに明確なゴールが無い以上、どこまで弄るかは人によって異なる。
無闇矢鱈に弄るのはコンパス無しに大海へ漕ぎ出すことに等しい。
写真の面白いところでもある訳だが、芯が無ければ、自分らしく現像するということはなかなか難しい。
秋の写真を撮ろうと息巻いてみたものの、あんまり風景らしい風景の写真を意図して撮ったことがないので、どうにもこうにも現像の仕方に悩む。カメラとレンズはどうしようもないので、この機材で戦うしかない訳であるが、色はどうしたもんだべとパソコンの前で頭を抱える。
やり過ぎると不自然になると言うが、個人的には例え自然な色でもつまらない写真になるくらいなら、不自然でもどこかに刺さるような写真の方が好きだ。強い写真が好きなのだ。
まぁ言うは易しで、いざ弄ってみるとどこかで見たようなつまらない色味になってしまって、また頭を抱える。
かといってあんまり数値を上げすぎると子供の塗り絵みたいな風情の無いものになってしまう。
多分、自分に明確な芯がないからだろう。それはコンセプトとか精神性とかそういうふわふわなものではなく“この色はこうする”“風景を見せたい時はこういう色味で”みたいな手段を伴った明らかな方向性だ。
それは一朝一夕で身につくものではない。何百、何千枚も写真と向き合い、自分と向き合い、初めて見えてくる方向性だ。
改めて写真というものは難しいと思う。結局のところ、どこまで行ってもカメラという道具は目の前の情景を切り取ることしか出来ない。どんなに高価なカメラだろうが、それは変わらない。そこに自分らしさ、個性を乗っけることは、何とも難しい。
個性というのはつまり撮影対象であったり、構図であったり、色味であったり、それ以外の何かに現れたりする。
何でもかんでも適当にそれっぽく、では、なかなか自分らしさは見つからない。
結局、ひたすら撮って現像していくしかないんだなぁと考えながらウィスキーのお湯割りを飲む。
肌寒いキャンプの夜はウィスキーのお湯割りが堪らなく美味い。
写真というものはどこまでも自分と向き合うことなのだ。
良い写真も悪い写真も、その基準は己の中に作るしか無い。
まぁ、つまり、実に単純なことなのだろうけど。
僕は、上手く秋の写真を撮れているのだろうか、と。
そんなことを考えながら、キャンプの夜を過ごしましたっていう話。
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