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だが同時にここは質屋なのだから当然の成り行きなのだとも納得する。 しかし財布も持たずに飛び出した。どうやってここにたどり着いたのか覚えてはいない。 さて、どうしたものだろうと頭を悩ます。今、零斗が持っているものは、一の糸が切れたままの津軽三味線と撥だけだ。 「財布は持ってきていない」 素直にそれを口にするとユメは一層目を細めて笑った。 「そんな無粋なものなんていらないよ」 そう言ってユメは零斗を指差した。正確には零斗が持つ津軽三味線を。 「一曲弾いておくれ。今のあん
零斗は無我夢中で走った。一分でも早くその音を取り戻したくて、待ちきれなかった。 暖簾を掻き分け、戸を開ける。 「いらっしゃい、おや? 先日のお兄さんだねぇ。こんにちは」 番頭台に膝をついて、頬杖をついていたユメは、相変わらず赤いブラジャーが見える程に胸をはだけさせた、黒の甚兵衛を着ていた。きちんと着る気など、頭からないのだ。 紫色の瞳を細め、口角の端を吊り上げて笑う。その唇の端に、煙管の吸い口を咥えて、すぅっと紫煙を吸い込む様は、高級娼婦のような色香と退廃的な雰囲気を
「うっ……くそっ!」 弦が途切れた津軽三味線を抱えたまま、ドアに背を預けずるずると床に崩れ落ちる。床の固さと冷たさが、足元から伝わった。 「くそっ!」 己に対する不甲斐無さと情けなさに苛立つ。そして師匠の音の記憶を失ったことを激しく後悔した。 無くしていいものなんかではなかったのだ。 例え永遠にその演奏に高みに到達できずに、嘆き苦しむことになったとしても。 津軽三味線はそうであるからこそ、独自の世界観を構築して発展してきた魂の楽曲。 元はボサマと呼ばれる盲目の男性
スポットライトの眩しさに、目蓋の奥に小さな痛みを感じた。 ステージから客席に一礼をして、着席をする。すでに糸巻きの調整は済んでいるのだが、それでも無意識に触れてしまう。 師匠の音を無くして初めて舞台の上に立つ。 木田柳の名がこれまで以上に重い。胃の奥が震えて、今にも吐いてしまいそうな程の緊張感を持っていた。 目を閉じて深呼吸をする。そっと弦に指を這わせ、撥を持つ手に意識を集中する。 唇が震えていた。零斗は深呼吸をして、軽く唇を噛んだ。 『それでは木田柳零翔さんで、
三の糸がスカ撥となり、音が抜ける。皮に撥が当たり、カッと乾いた音を立てた瞬間、零斗は我に返った。ありえないミスだった。 それと同時に頬を大きくびんたされる。沙織が零斗の頬をぶったのだ。 思った以上に強い力だったので、椅子から転げ落ちそうになるが、そこは辛うじて足に力を入れて踏みとどまった。沙織の思いがけない行動に茫然としてしまい、声すら出なかった。 すると沙織は大きく溜め息を漏らした。 「この騒音はなんなの、木田柳零翔。こんないい加減な音の羅列、演奏でもなければ伴奏で
あまりに唐突な変化だったので、慌てて顔を上げると、そこは見覚えのある往来で、先ほど零斗自身が歩いてきた道だった。 「えっ!」 夜の照明が鮮やかな町並みに、香水と大衆とアルコールの混じった猥雑な匂い。夜毎繰り返される喧騒的な、繁華街の風景がそこにはあった。 「はっ?」 血の気が引くほど驚いた。そこはもうあの質屋の店の中ではなかったのだから。 『ピピピ!』 「!」 足元で小鳥が鳴いた。クロガネだった。 「あ、おまえは!」 クロガネは零斗が店の板の間に上がる時に脱いだ靴の
確かに自分の体に、ユメが手を埋め込んだその瞬間を見ていた。 その恐怖は拭えず、そのまま体勢を元に戻すこともできないまま、零斗はユメを見ることしか出来ない。 瞬間的に生まれた恐怖に割って入ってきたのは、漆黒の翼の小鳥だった。 それまでユメの頭にいたそれは、ぱたぱたと飛び立って、零斗の目の間の板の間に降り立った。そして首をかしげて「ピ?」と小さく鳴いた。 まるで大丈夫? と心配されているような気になり、零斗は肺の奥にたまっていた呼気を恐怖と一緒に吐き出した。 そうだあ
零斗は寂しそうに、しかしどこか嬉しそうな、反する感情を内包した眼差しを湯飲みに落とした。ゆらりと揺れるお茶の水面に、頼りない姿が溶け込んでいく。 胸の奥の痛みを感じ、息を詰まらせたようにして息を吸った。そして泣き出しそうな子供のような表情に、淡い苦笑を滲ませて独白する。 「そうだね。でも師匠の音に焦がれるあまり、俺は自分の音の未熟さに、そして理想とする音から遠ざかっていくことが辛い。どれだけ弾いても、弾けば弾くほど苦しいんだ。師匠の音が頭から離れない。何をしても忘れようと
指輪や時計、その他のアクセサリーなどはもちろんあったが、傘や杖などといった品までショーケースに納められている。質屋のイメージとして、金目のものや流行遅れのブランド品が並べられていると思っていたが、少なくともここは主人の趣味によるものなのか、他の店の商品とはまったく違うものらしい。正直金銭的な価値が高いものがあるようには思えない。 そういえば、「特別な品しか引き受けない」と言っていた。金銭的な価値がなくとも引き受けているという事か? そこまで考えてはたと思い出す。 「ねぇ
日本家屋でありながら、ブルーやイエローの照明が施された棚の中には、およそ統一感のない品が陳列されている。 本人は挑発的とも取れるような、でたらめな格好をしているが、商品管理に関しては完璧な状態を保つようにしているらしい。室内の温度と湿度は快適に保たれていた。 津軽三味線は犬の皮を張るため、管理するには湿度にも温度にも気を使う。そのため零斗はそうしたものを、肌で感じ取ることができるようになっていた。 だがやはり製品の統一感のなさに、零斗は大いに戸惑い、そして店の雰囲気の
最悪だ。 零斗(れいと)は今日の自身の演奏を思い返して溜め息をついた。 十一月の木枯らしの吹く晩秋。めっきり冷え込む空気は、酔った頭をまたたくまに冷やしていく。モスグリーンのハイネックの薄いセーター、黒のジャケットに紺色の姿デニム姿。特に目立った服装でもなければ、泥酔しているというわけでもない零斗に、視線を向けるものなどいない。 零斗は再度深く溜め息をついた。 まったく思い通りの演奏とはならなかった。 ミスした箇所などどこにもない。ただ聞くだけならまったく問題のな
薄紅の布がついたはたきを振るった瞬間、その戸棚の隙間で羽根を休めていた小鳥が飛び立った。漆黒の翼を広げて天井高くへと舞い上がる。成鳥だが大きさは大人の女性の拳程しかない。口ばしが木の実を食べて染め上げたかのように赤い小鳥だ。 飛びまわるには自由さを欠いた閉鎖的な室内をくるくると旋回して飛ぶと、自らを追い立てた 主(あるじ)の頭上近くを飛び回った。 主人ははたきを振るっていた手を止めて微苦笑を浮かべる。 「ごめんよ、クロガネ! そこにいるのを知らなかったんだ」 はたきを