僕が僕になるまで、まだ僕のことは知らなかった。

これは長い日記。
2022年から下書きにあったもので、まだ続いているし、書き足していくと思う。

僕の知らなかった、知りたかった僕は、唐突に現れた。

僕が18歳の冬に敢行した、不退転の猛勉強により一般に言う高学歴を手にした。
その場にいる内は気づくことはないが、その場から離れて初めて大学の名前がいかに自分という人格の中に組み込まれているのかが分かる。

卒業時には4年間で144万円の借金を抱えることは知っていながらも、他者からの評価の心地よさで、それらはすぐに忘れ去られることになった。

田んぼに囲まれた地元にあっては総理大臣にでもなったかのように称賛され、世界を制したかのような取材を受ける。
芽生えたての全能感が全身を支配し、金のない実家から御曹司のふりをして都会へ出た。

私はとにかくこの狭い世界を捨てたくて仕方がなかった。
道を歩けば誰かの知り合い。
彼らの脳内にあるいくつかの人生のプラン以外を話して聞かせれば、途端に黄信号を照らされる。
放っておいて欲しかった。

何度も生まれた地を憎んだ。
親族、友人に不満はなく、ただただ地を恨んだのである。
伸びかけの翼で、あらゆる重りを払い除け、飛び立つ日を待った。

何も無い田舎にしては、旅立ちの日までは早く、3月の14日。
博多駅まで普通電車で向かった後は、新幹線で京都へ向かった。
誰も知らない、ただ広がる真っ白なキャンパスさながら、私は2度目の誕生をしたようだった。

友達ができるだろうかなどという悩みはなく、自分はどんな大人になるのかのみが気になった。
ここでは、大人とは会社員のことを指す。

散々田舎への不満を抱えていた18歳は、4年後にどの道を選ぶのか。
大学というよりは職業訓練学校と理解していたのかも知れない。

振り返っては、ただ、よく遊び、よく学び、よく失敗をした4年間だった。

例えば入学直後、周囲の人間が着る白いシャツのワニやトナカイのロゴが気になったことがあった。
ラコステとアバクロというらしいが、生まれてこの方ロゴ付きのシャツがあることを知らなかったのである。

母親に鬼でも見たかのような報告の電話をし、都会はすごいとはしゃいでいた。

そして、有名な私立大学に通うということは、家庭の平均所得が高い子どもが集うということである。
シャツに始まり、下宿先からSNSの投稿まで、あらゆる部分で私は辱めを受けた。

それでも大学に通えているのだから、絵に描いたような貧困層では無い。
ただ、30年間上がらない国民所得と地方格差の影響を受けた相対的貧困を痛感させられる場面は、私を激しく揺さぶって貫いた。

無知で、貧しく、1人泥を被って歩いているような気持ちになった。
金が必要なのだと理解した僕は、すぐにアルバイトを始めた。

今思えば、1時間を1000円に満たない額で切り売りすることに躍起になっていた自分が可愛く思えるが、当時の私にすればそれは非常に高尚な行為に見えていたはずだ。

私は給料が入れば服を買いにいくことに決めていた。
もうロゴのついていない肌着の透ける白シャツを着ることは我慢ならなかったからだ。

とは言っても18歳まで制服とジャージで過ごしたせいで、ブランドは愚か、その服がメンズなのかレディースなのかさえ見分けがつかなかった。

キョロキョロと河原町を散策してると、御幸町通で「いい感じ」の服屋が目に止まり、私は吸い込まれて行った。

そこには、ロゴのついたシャツだけでなく、渋さと可愛さを同居させた服が置いてあった。
店員から、何年前のどのブランドで、こんな目的で作られたのだという説明を聞いているうちに私はどうしてもそれが欲しくなった。
初めて買った服は、緑色のダック地のパーカーだった。

何となく古着であることは気づいていたが、私の知る古着は500円で安っぽいシャツが買えるということだったから、8000円でよく分からない古くて硬いパーカーを買うということは少しも予想していなかった。

洋服に1万円近い金額をかけるという、半ばカルチャーショックに近い体験をしたが、それも都市部に住んでいることの特権だと、優越感に変換した。

18歳までも、私は友達がおらずに困ったことがなかったが、引き続きそれは継続していた。
人との出逢いの運だけは世界トップクラスだと自負している。

立ち上がったばかりの学生団体にのめり込んでみたり、サークルではサッカーの新しい楽しみ方を知った。
アルバイト先の仲間と歌を歌いながら酒を飲むことを覚えたり、爆音の中で女と朝まで踊ることを楽しんだ。

その間、恋に盲目になり、1年間で50万円近くを浪費したりと、手痛い学びもあったが、私は大学生というものを全身で謳歌したものだと思う。

就職活動では、日々自己分析と面接対策に打ち込み、大学の名前もあってか3月に第3志望に内定をもらうことが出来た。

3年生までで単位を取り終えていた私は、最後の1年をのんびりと過ごすことにしていた。
原付で夜の伏見稲荷に行き、有名なラーメン屋に並び、歳下の彼女とデートを繰り返し、何一つ文句はなかった。

夏休みの半ばになると、内定者のインターンが始まるとの知らせを受け、社会人になる練習を始めることにした。

学生から社会人になるにあたり、変化が必要なことは既に知っていたため躊躇いはなかったが、今思えばただ惰性であったことは否めない。

勉強を頑張っていい大学に入って、いい企業に入り、活躍して給料を増やす。
そんな典型的な大学生であったことは、当時は思いもしなかったのである。

気合十分に業務に取り組むことに、むしろ尖った存在であるような気持ちすらあった。

9月に始まったインターンは、大阪のレンタルオフィスの地下一階を借り、ひたすら営業電話をかけ続けるというものだった。
1日に100件以上架電するというノルマがあり、8件以上の商談獲得がノルマだった。

私は苦戦しながらも、これが成長痛かと理解し、とにかく打ち込んだ。

太陽の傾斜すらも分からない地下室におり、気づけば気温は0度を下回る時期になっていた。
大学生の最後にしょっぱさを感じてはいたものの、遊んで回るよりはマシだろうと、成果の種に必死に水を撒いた。

するとある日に、唯一の社員が退職し、学生のみが残された。
代わりに東京から遠隔で管理するのでと一言、私は社会人の薄情さに呆れた。

それが地獄の始まりだった。
目的の見えない理詰め、人格諸共の否定、こちらの感情は無視した面談など、日に日に心から灯りが消えていった。

1月の後半には、酷い頭痛と不眠に悩まされていたが、社会人は甘くないのだと言い聞かせ、戦場に向かい続けた。

ある昼、私は嘔吐した。
人の顔を見て動悸が起こり、気づけばトイレに駆け込んでいた。

私は壊れたのだった。

年下の彼女には、寝れないから一緒にいてくれと弱音を吐き、毎日バファリンを購入していた。
顔からは精気が消え、再就活を始める訳にもいかない時期に、絶望することしかできなかった。

2月頭でインターンを辞退し、療養の日々が始まったが、なんとか3月の末には全快に近付けることができた。

僕は25人の同期のうち、唯一復讐の気持ちを持って入社したのだと思う。
彼を見返し、黙らせ、そして受け入れることで気持ちを整理しようと決めていた。

大阪での経緯もあり、彼の下からは離れた部署に配属になったおかげもあってか、入社してからは仕事を楽しいと思えるようになっていた。

同時に、下北沢や高円寺という古着の本場に遊びにいくことも増え、充実した日々を過ごしていたように思う。

ある土曜日、下北沢の露店に入ると、威勢のいい店員が話しかけてきた。
「お前はこのデニムを履け。」と一言、明らかに大きすぎるデニムを手渡してきた。

聞けば同い年らしいのだが、強烈な関西弁に負け、試し履きをすることにした。

何度、どの角度から見ても大きすぎるそのデニムは、かなりの不格好に見えたのだが、彼はなぜか喜びながら近づいてきた。

「これを引きずって履けよ。お前、かっこいいで。」

デニムの裾を引くずって履くなど、何を言っているのかと思ったが、妙に心に残る一言でもあった。

面白い奴がいるもんだと思いながら、この出会いに少しばかり色をつけようと、そのデニムを買った。

母親が見れば激怒間違いなしのスタイルで街を歩き、ボロボロのチャックテイラーで踏み続けた裾が破れ始めたころ、最寄りのセブンイレブンの壁に映る自分が目に入った。

僕は信じられなかったが、破れて広がった裾がやけに輝いて見えたのだった。

恋とはいつも突然である。
昨日まではただの友達だと思っていた相手が、ふとした瞬間に気になってしょうがない相手になることは、大人になったとしても変わらない。

学生の頃の体育祭のときめきが、姿形を変えて現れたのだ。
いわば僕は、服に恋をしたのだった。

18歳まで自分で服を買ったこともなかった私は、センスというものを持ち合わせていなかった。
知識、経験の不足がどうしても辛く感じられたが、恋は盲目である。
欠かさず下北沢へ通い、自分なりにファッションというものを考え始めた。

仕事も趣味も友人も、欠けることなく揃っていたが、6月に会社の方針転換により、またあの男の元へと異動する羽目になってしまった。

そこからは早かった。
7月には頭痛と不眠が再発し、同じく昼に体調不良を起こし、人事面談の末に部署を異動することになった。

同期にも遅れを取ったような気がしてならず、自分の境遇がいかに可哀想なのかということを他人に認めてほしくて、転職エージェントとの面談を詰め込んだのだった。

しかし、異動先は別世界かのように心地よかった。
話し方に気を遣うことはなく、業務を覚えるためのマニュアルが存在し、何より失敗が許容されていることに感激した。

僕は、この恩義を早く返したいの一心で業務に打ち込んだ。
僕を元に戻してくれた人達へ、成果として返すことしか考えていなかった。

環境を変えたことがよほど良かったのか、私は移動後3週間で1つの成果を残すことが出来た。
久しく味わっていなかった、自分はやれるんだという自己効力感と達成感を感じられて、なんとも心地よかった。

それでも、僕には拭きれない違和感が存在した。
これだけ恵まれた環境で、私に向いている業務に取り組んでいても、なぜか18時になると帰りたくて仕方がなかった。
どうしても、それ以上の時間を使いたくなかったのである。

私は大いに悩んだ。
恩義や論理で様々な角度から考えても一向に理解できなかったが、ある日光は差した。

単に、それ以上にやりたいことが見つかっただけだった。
私はこれまで24時間365日レベルで打ち込んでも苦ではないというレベルを「好き」「やりたい」こととして認識してきた。
その基準を超えるものではなかっただけで、その仕事は嫌いでも苦しみでもなかった。

ぬるいと思った瞬間も、つまらないと思った瞬間も、ただ僕が求めているものが違っただけだった。

あのデニムと出会ってから、私の頭にあったのはいつも服だった。
服を売り、服について語る仲間に囲まれて過ごしたかった。
運よく既に古着屋のオーナーをしている同い年の友人がいるじゃないか。
今はないセンスと知識は勉強すればいいじゃないか。

出来るかどうかはわからないが、出来ないとも言い切れないことに気付いてからは、一層のめり込んでいった。

私は、2021年を期限にし、仕事に打ち込むことにした。
1月生まれの私にとっては、12月はキリのいい月であり、ボーナス支給の月でもあった。
会社へは申し訳なさを感じていたが、自分に残された命を思うと、そんなものどうでもよくなった。

自由とは責任を伴うものである。
僕の周囲は、よくそれを理解しているからありがたい。

引き留めはせず、無関心なりのプラスな言葉を投げかけ、目を見て応援するぞとまで言ってくれた友人もいた。

私は、残りの20代、1分1秒を賭すことを決めたのである。


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