メイベル-天魔の神判代行者-【第1話】
【あらすじ】
【登場人物】
葉月メイ・ヘインズ:
主人公。18歳。外国人とのハーフ。教会の祓魔師でランクはEX。
周囲から〈魔女〉と呼ばれ忌み嫌われている。
ベル:
メイと契約中の悪魔。正体は七つの大罪の一柱・ベルゼブブ。
現在は可愛い女の子の姿形を取っている。
【本文】
「アタシと賭けをしない?」
その日、悪魔は私にそう囁いた。
ゴミ溜めのような、狭いアパートの一室だった。身体中に殴打の痕を持つ少女は、眠っているかのようにピクリとも動かない幼い妹を抱きかかえて、『それ』を見上げていた。
「賭け……?」
繰り返す少女に、「そう」と悪魔は頷いて、羽虫のように宙を飛び回る。
「アタシは妹を助けるための力をアナタに貸す。アナタは力の分だけ魂を支払う。――ただし」
悪魔はその艶やかな唇に、人差し指を当てた。
「アナタがもし妹を諦めたその時は、アタシはひと思いにアナタの魂、その全てをいただくわ。簡単な勝負でしょ? アナタが妹を助け出すのが先か、アタシがアナタの魂を食い尽くすのが先か」
掛け金は魂。
勝負は少女が妹を助けられるか。
刻限はその命が尽きるまで。
――簡単な勝負だった。外ではしとしとと、雨が降っていた。
「……いいだろう」
少女は言う。たった一人の妹だ。魂ぐらい賭けられなくてどうする――と。
「お前の賭けに、乗ってやる!」
その返事に、悪魔は嗤う。
そうしてメイは、悪魔と契約をした。
――――――
――――
――
大型バイクが、雨上がりの夜道を駆けていく。
『殺人事件?』
どこからともなく聞こえた声に、「あぁ」と。バイクに跨がるメイは、ヘルメットの中から相槌を打つ。
「警察に出向中のCランク祓魔師から連絡があった。場所は北口の旧市街地区。犯人は現在、行方不明になっている被害者の長男15歳が有力だとのことだ」
駅から伸びる主要道路だというのに、車通りは少なく、街は閑散としていた。通りには古びたビルが並び、錆び付いたシャッターが降りたままの店も多い。いわゆるシャッター街。時折見かける煌々とした灯りは、飲み屋のものだ。
時刻は夜の8時。関東の地方都市――つまるところ不便ではない程度の田舎の、ありがちな光景だった。
『それで? なんでアタシたちが駆り出されるわけ?』
「名有り。それも称号持ちである可能性が高い」
『なるほどねぇ。それじゃ見習い上がりには荷が重いわ』
バイクに乗っているのは、メイ一人だけだ。見る人が見れば、メイはハンズフリーで電話でもしているか、あるいは独り言を呟いている怪しい女に見えるだろう。
けれどメイはそんな些事を歯牙にも掛けず、「それと」と付け加える。
「現場には『黒い羽根』が残されていたらしい」
その言葉に、姿なき声の主が「ははーん」と楽しげな声を上げた。
どこかで『彼女』あるいは『彼』が舌なめずりする。
『それはそれは――期待しちゃうじゃない』
*
住宅街の一角に建つマンションの前には、おびただしい数のパトカーが停まっていた。
並ぶパトカーの間にバイクを横付けし、メイは降りる。ヘルメットを取ると、豊かな亜麻色の長髪が、枷から解き放たれてふさりと揺れた。現れた日本人離れした美貌に、周囲の人々が思わず見とれる。
そこに、メイと同じく、しかし少し簡素なデザインの尼僧服を纏った少女シスター二人が駆け寄ってきた。
「お、お疲れ様です!」
「夜分に及びだてして申し訳ありません!」
「挨拶はいい。反応があったんだな」
「「は、はい」」
冷めた目で、ともあれば眠たげにも見える目を向けるメイに、二人は困惑した様子で顔を見合わせる。
「周辺から本体、および契約者の反応はありませんでした」
「しかし、事件現場の残滓の強さから……おそらくはAランク以上かと……」
二人はなんとも歯切れ悪く答える。メイは表情一つ変えず、尼僧服の胸元からネックレスチェーンに繋がれた小鐘を取り出した。眼前に掲げ、聖句を唱える。
「『女神に祈りを、乙女に剣を』」
すると揺らしてもいないのに、小鐘がリーンと涼やかな音を立てた。音は夜の帳にどこまでも伸びて――行かなかない。すぐさまリリリリジジジジと不快な音に変わったかと思うと、まるで何かの力に遮られたかのようにブツンと音が途切れる。
その異様な音の収束に、シスター二人が顔を青ざめさせて身を寄せ合う。
メイは小鐘をしまいながら言った。
「ここは私が引き継ぐ。お前たちは教会本部に連絡を。その後は通常任務に戻るよう」
「「はいっ」」
応えるが早いか、二人は踵を返して去って行く。
「――〈魔女〉のくせに偉そうに」
去り際、わざと聞こえるようにそんな言葉を吐き捨てて。
思わず零れそうになる嘆息を堪える。
と、聞き覚えのある声が掛けられた。
「よぉ、葉月の嬢ちゃん」
「谷口警部」
気付いたメイが振り返ると、くたびれたスーツを着た中年の刑事は、気さくに片手を上げた。
谷口信彦。D県警本部刑事部捜査第一課所属の警部だ。
「久しぶりだな。やっぱ嬢ちゃん案件か」
「お久しぶりです。やっぱり、というと?」
「まぁ、死に方が死に方だからな」
ぽりぽりと頭を掻きながら、谷口はメイをマンションの5階にある事件現場へ案内する。
「――ひでぇもんだぜ」
503号室。その部屋のリビングには、全身の穴という穴から血を噴き出して死んでいる男の変死体があった。その周囲には、カラスのような黒い羽根が散乱している。遺体は相当な苦しみに襲われたのか、眼球が零れ落ちそうなほどに目を見開き、口からは泡混じりの血と唾液が零れていた。
「死因は解剖してみないと分からんがな。……どう見たって人間の殺し方じゃあない」
そのおぞましさに、谷口が顔をしかめる。一方のメイは淡々とした表情のまま、手を組み合わせて短い祈りを捧げた。
「被害者は鵜飼幹生。38歳。IT企業の中間管理職。妻とは5年前に離婚。いわゆるシングルファザーってやつだ。子供は男が二人で、14歳と8歳だ。このうち、8歳の次男の方は気絶した状態で見つかってる。倒れてたのはほら、ちょうどその辺りだ」
鑑識が実況見分を続ける中、谷口が部屋の隅を差す。
「次男は下のパトカーで保護中だ。――問題は長男の方だな。事件直後から行方が分からず、スマホは持ってるらしいんだが連絡も取れない。今、近所から目撃情報を集めたり、市内の防犯カメラを漁ってるとこだ」
「殺害犯はその長男だと?」
「……金目の物がごそっとなくなっててな。現金から通帳、クレジットカードまで、すっからかんだ」
谷口は書斎を案内した。そこには鍵のかかる机があって、しかしその一つが引き出されたまま、中身が空になっていた。
状況から考えられる事件の道筋は4つ。
一つは、身代金を目的とした長男の誘拐。しかし、であるなら父親が殺されているのは腑に落ちない。
二つ目は強盗殺人だが、だとすれば現場に次男が残されており、長男だけが行方不明であることに説明が付かない。
三つ目――もし長男の身体そのものが狙いであるなら。連絡が取れないことに説明は付くが、父親が死んでいることも、金目のものがなくなっていることも、次男が無事なことも説明が付かない。
ならば四つ目。怨恨殺人の線を考えるのが妥当だ。それに――
「……被害者には虐待の噂があってな。怒鳴り声や、子供の泣き声が聞こえるのは日常茶飯事。腕や顔に痣を作った長男の姿が目撃されたこともあって、何度か児相が来ていたらしい。……今回の件も、言い争う声が聞こえたと思ったら、ぱったりと静かになったのを不審に思った近隣住民が通報して発覚したらしくてな」
殺害動機も十分だ。
メイはリビングに戻り、室内を見て回った。
遺体から流れ出た血の大半は、その下の絨毯が吸い取っている。血はまだ乾いていない。殺されてから、まだあまり時間が経っていないのだろう。周囲には謎の黒い羽根が散らばり、そしてフローリングや壁には荒縄にも似た血の跡が残っている。
(蛇、か……?)
メイが口元に手を当てて思考を巡らせていると、その時、谷口のスマホが鳴った。
「はい、こちら谷口……おう、おう分かった。すぐ行く」
通話を切り、メイに呼びかける。
「嬢ちゃん! 次男が目を覚ましたらしい! 話を聞きに行くぞ!」
*
「ごめんなさい。何も覚えていないんです……」
目を覚ました次男・鵜飼尚紀はパトカーの隅にちょこんと座り、俯きがちにそう言った。年の割には大人しく、賢そうな少年だった。
「今日は急に雨が降ってきたから、学校で少し雨宿りしてから帰ってきたんです。そしたら父さんとにいちゃんがすごい喧嘩をしてて、それで僕、やめさせなきゃって思って間に入って、そしたら父さんが『邪魔だ』って僕を突き飛ばしてそうして……そこからは、あまりよく分からないんです。気が付いたらにいちゃんが僕を抱き締めてて、急に眠くなって……目が覚めたら、僕はここにいました。あの……」
尚紀が谷口、メイ、それから付き添っていた女性警官を見回して尋ねる。
「父さんたちに何かあったんですか……? にいちゃんは……?」
「あーその、なんていうかな……」
谷口と女性警官が顔を見合わせ、目を逸らす。あの凄惨な事件を幼子に話していいか、迷っている様子だった。
と、メイは尚紀の首筋にあるものを見つけ、手を伸ばした。
「これは?」
「えっ、首がどうかしました……?」
「何かに噛まれたような跡がある」
「……そういえば眠くなる前、首がチクッとしたような……」
少し伸びた髪を掻き上げたその下に、ポツポツと注射痕のような傷が二つ並んでいる。
「…………」
「谷口警部!」
「なんだなんだ。今度は何だ!」
再び思案していると、スーツ姿の若い男性刑事がその思考を邪魔するように駆け寄ってくる。めんどくさそうに振り返る谷口に負けじと、男性刑事は声を張り上げ報告する。
「長男と見られる少年を、防犯カメラが捉えました!」
送られてきた防犯カメラの映像は、僅か数分前のものだった。
「これが鵜飼裕紀か?」
男性刑事から渡されたタブレットを、谷口と共に覗き込む。映し出された黒髪の少年を指さして尋ねると、隣から男性刑事がスマホの画面を見せてくる。表示されていたのは、真面目そうな黒髪少年の生徒手帳画像。私服と制服の違いはあれど、映像の中の少年に間違いない。
「駅南口のカメラが捉えたそうです」
「隣にいるのは誰だ?」
「分かりません。友人……とかでしょうか」
「それにしちゃあ小せぇな」
長男・鵜飼裕紀の隣には、弟・尚紀と同じ年頃の小柄な少年が映っていた。髪は淡い金髪。金髪の少年は、俯きがちに歩く鵜飼兄の周りをちょこまかと動き回っている。まるで兄・裕紀を元気づけるような、共あれば道化のような身振り手振りだった。だが――
「……前の映像には、いませんね」
「待ち合わせをしていたか……それとも見ず知らずの子供か……」
映っているのはそのカメラの映像だけで、それより前に裕紀が通った北口のカメラに、少年の姿は映っていなかった。
(まさかこいつは――)
メイは違和感を覚える。
「今のところ。戻せ。そこで停止。拡大できるか」
メイの指示に、男性刑事が不機嫌そうな顔をしながらも従う。金髪の少年の顔が拡大され、粗い画像は画像処理を施されて鮮明に。
そうして映し出された、北欧系のような麗しい顔立ちの口元に浮かんだ笑み――哄笑に、メイの中で一つの答えが像を結ぶ。
「――!」
「おい、嬢ちゃん!」
メイはバイクに飛び乗ると、ヘルメットを被り、瞬く間に夜の街へと駆け出した。谷口が止める間もない。
「ったく、しょうがねぇな……おい、何ぼさっとしてる! 追うぞ! 車出せ!」
「はっ、はい!」
「それと――緊急連絡! 駅周辺から、今すぐ民間人を避難させろ! 手ぇ空いてる奴、全員でだ! このままじゃ死人が出るぞ!」
その物騒な一言に、現場に緊張が走った。
*
鵜飼裕紀は消沈して高速バスのロータリーに立っていた。
運が悪いことに、前のバスが出たばかりで、次のバスは40分後だった。
電車にすれば良かったかな。そんなことを考えていると、どこからともなく少年の声が聞こえた。
『何をそんなに落ち込んでいるんだ?』
「…………」
裕紀は声を無視する。すると電灯の光に伸びた薄い影の中から、金髪の少年が上半分だけ顔を出した。
「よかったじゃあないか。随分苦しめられていたんだろ? あんな暴力男、死んで当然だ。お前は悪くない。弟だってあんな親、いない方が幸せに――」
「うるさい!」
肉声となった声に、怒鳴り返す。ホームで電車を待っていた何人かが、奇異の目を裕紀に向ける。
「……うるさい。その顔を見せるな。引っ込んでろ」
苦虫を噛み潰すように吐き捨てる。すると少年は、とぷんと波紋を残して、影の中に再び沈んだ。
きっと、意図してやっているのだろう。
弟に似せて作られた少年の顔は、置いてきた弟を思い出して、不快だった。
自らに言い聞かせるように、呟く。
「……いいんだ。これでよかったんだ」
「――本当か?」
その独り言に突如として返された問いかけに、裕紀は反射的に振り返った。
駅のホームへ降りてくる階段前。そこに、亜麻色の髪に尼僧服の女性が立っている。
あまりにも現代に即さないその格好に、裕紀は怪訝な顔をした。
「シスター……? なんでこんなところにシスターが――」
――ジャキッ。
翻る尼僧服の裾。垣間見える太もものホルスター。
気付いた時には、自動拳銃の銃口が裕紀を捉えていた。
思わず口を噤んだ裕紀は、苦々しげに銃口を睨む。
「……俺を捕まえに来たのか」
だがそのシスターは首も振らず、冷めた視線だけを返した。
「残念だが、お前の今後について興味はない。警察に捕まろうが、このまま逃亡しようが、どうでもいい」
「じゃあどうして……」
「私が用があるのは、お前に取り憑いた『悪魔』だ」
ドキリと心臓が跳ねる。
冷や汗を垂らしながら、しかし裕紀は努めて冷静に言い返した。
「悪魔? あんた何言ってんの? そんなもの、いるわけ――」
「悪魔祓いには、対象の正体を見破る必要がある。――お前に取り憑いた悪魔の手がかりは、4つ」
指も立てずに、シスターは語り始める。
「一つは、全身から血を噴き出した変死体。おそらくは毒殺だろう。だが、たかが人間の毒であんな死に方は不可能だ。ならば、何の毒なのか」
「…………」
「――蛇」
ぴくりと裕紀は肩を震わせる。
「現場には蛇が這いずった跡があった。悪魔の毒蛇による殺害であるなら、あんな変死も不思議ではない。悪魔はより残虐な殺し方を好むからな。加えて、次男の首筋には蛇の噛み跡があった。弟に凄惨な現場を見せたくなくて、睡眠毒でも盛ったか?」
裕紀は応えない。シスターは続けた。
「二つ目は金目の物が根こそぎ奪われていたこと。日頃から虐待を繰り返していた父親が、財産の隠し場所を子供に教えているとは考えにくい。机には鍵もかかっていたしな。しかし、机を無理にこじ開けた様子はなかった。であれば、これも悪魔の力によるものだと考えていいだろう。
――そして三つ目」
シスターは問う。
「お前、ツレはどうした?」
裕紀はシスターを睨んだまま、完全に沈黙していた。
「そして最後――現場に散っていた、黒い羽根。これを有する悪魔は鵺か烏か、あるいは堕天使か」
まだ少し寒い春の夜風が、二人の間を駆け抜けていく。どこからか舞い込んだ花の花弁が、夜に散る。その中で銃を構えるシスターの姿は、妙に美しく。
「毒蛇に、財宝を見つけ出す力。そして子供の姿を取れる堕天使となれば、答えは自ずと一つに絞られる」
シスターは静かに告げる。
「出て来い。ゴエティアの悪魔が一体、元力天使――キュルソン」
瞬間、裕紀の影がズルリと夜に伸びた。
「まさか人間如きに見破られるとはな」
鵜飼裕紀の影から這い出てきた悪魔・キュルソンは燕尾服を纏った青年の姿をしていた。左腕に大蛇を巻き付け、背には見せびらかすような漆黒の翼。夜空を背に浮かんで優雅に足を組む、
「さすがは教会の祓魔師……いや。ユスティティアの乙女と呼んだ方がいいか?」
メイはその挑発に応えず、銃口を裕紀からキュルソンへ向ける。
「お前に逃げ場はない。大人しく祓われろ」
キュルソンは面白くなさそうに顔を歪める。
「逃げ場はない? 馬鹿を言え。追い詰められたのはお前たちだ。――わざわざ我に、実体を与えたのだからな!」
瞬間、キュルソンが両手を掲げ、無数の光弾を発射した。メイは拳銃のトリガーを引いて応戦しながら、呆然とする裕紀を抱え、物陰に転がり込む。
「あんた、どうして俺を……」
「邪魔だ。下がってろ」
メイはカートリッジを交換しながらキュルソンの様子を伺う。連続発砲。しかし銃弾は光弾の弾幕に阻まれる。
「ははは! その程度か、祓魔師! どうやら切れるのは頭だけのようだな!」
「なぁ、実体を与えたってどういうことだ? やばいんじゃないのか?」
メイは詰め寄る裕紀をチラリと一瞥すると、すぐさま意識をキュルソンに戻した。
「ほとんどの悪魔は実体を持たず、現世に干渉できない。故に人に甘言を囁き、契約することで自身を現世に繋ぎ止め、世界への干渉を可能にする。しかし実体化させる方法がもう一つある。それが祓魔師の『名当て』だ」
ペデストリアンデッキからロータリーへ降りる階段の陰を移動しながら、メイは説明する。
「正体を知ることは、その存在を認識すること。その認識の力を利用して、悪魔を契約者から引きずり出し、現世に固定する」
「なんでわざわざそんなこと――」
「斃すためだ」
メイは物陰から飛び出し、弾倉が空になるまで撃ち続けた。案の定銃弾は全て蒸発させられるが、その光弾の隙間めがけて、メイはブーツの中から取りだしたナイフを投擲した。ナイフはキュルソンの頬を掠めて、夜闇に消えていく。
「実体がなければ、どんな攻撃も無意味だからな」
ビキ、とキュルソンの額に青筋が浮かんだ。
「神の奴隷ごときが……我に傷を付けたこと、その魂を以て贖え!」
「危ない!」
放たれたキュルソンの毒蛇が不規則な軌道を描きながら、佇むメイへと高速で肉薄する。しかし、
「――『ベル』」
メイがその名を呟いた瞬間、ずるりと。メイの影がまるで生き物のように伸びて、毒蛇を防いだ。
「なっ……!?」
驚愕するキュルソンの視線の先で、影が宙に伸び、少女の姿を形取る。揺れる桃色のツインテールに金色の瞳。その背には小さな蝙蝠の羽。
「ねぇ――誰の物に手を出そうとしてるの?」
メイの首に腕を絡め、艶めかしく頬を撫でながら、その悪魔・ベルはキュルソンを見上げた。
ゾッと、空気の温度が一段下がる。
「ま、ま……まさか貴方様は……」
「久しぶりねぇキュルソン。息災だったかしら?」
気さくな物言いに、キュルソンがゴクリと唾を呑む。それから慇懃無礼に一礼。
「……お久しゅうございます。まさか我が名を覚えておいでとは、恐悦至極」
「そりゃ覚えてるわよ。部下の部下ぐらい」
「お気分を害したのなら陳謝いたします」
「あら、いいのよ。謝罪なんて」
クスクスと無邪気にベルは笑う。
「だってアナタ、今からアタシたちに殺されるんだから」
静寂が、世界を覆った。
「くくく……なるほど。そいつの影から出てきたときはまさかとは思ったが、まさか、そうか。――神の手先と結託するとは、堕ちたものだな!」
瞬間、無数の光弾が射出され、ベルはメイを抱えて中空に飛び上がった。
「堕ちるもなにも、元から堕ちたから悪魔なんじゃない」
「おい」
唇を尖らせるベルに、メイは不機嫌に呼びかける。
「いいから早く力を寄越せ」
「えー? 折角の封印解除なんだから、もっとロマンティックに……」
「お前の趣味を優先させてる暇はない」
「趣味じゃなくて乙女心~!」
もう、とむくれながらも、ベルはメイをペデストリアンデッキ下ろし、自身はメイの視線の高さに浮かび上がる。伸ばされた指が、メイの顎をクイと掴んで持ち上げる。
雨上がりの澄んだ月明かりが二人を照らす
「もう……せっかちなんだから。でもそんなとこも、好・き」
そうしてメイとベルの唇が、静かに重なった。
僅かな間を置いて、微かに混じり合った唾液が糸を引いて離れる。ハと、どちらともなく熱の籠もった息が零れる。そして、
ドンッと、大気と共に力が弾けた。
内に注ぎ込まれた黒く暴力的な力が、メイの身体を侵食していく。手足を覆い、耳を覆い、目を覆い、メイの定義を変質させる。
「なっ……悪魔の力と融合した、だと……!?」
ゆらり。メイが顔を上げる。その右手には、影を凝縮したような大鎌。
そこ佇むはメイであってメイでなく――そこにいたのは、人と悪魔が交じり合ったナニカだった。
メイが大鎌をブンッと一振りして、背に構える。
「女神の御名の下に、神判代行者・葉月メイ・ヘインズ。これより神判を代執行する」
そして空に浮かぶキュルソンに向かって、地を蹴った。
戦いはあまりにも一方的だった。
ベルの力を宿したメイは中空を蹴って飛び回り、大鎌を振るう。足を切り、手を切り、翼を切り落としていく。キュルソンはその動きを、目で追うことすらできない。
その様子を、ベルは遙かな高みから見下ろして、ケラケラと笑っている。
「まさか、こんな……っ! 王ぞ……我は王ぞ!」
「ぬかせ、三下の王が!! 我が契約者をそう易々と食えると思うな!」
ベルの哄笑が響く中、メイがキュルソンの身体を月に向かって打ち上げる。それを追って、メイは空を跳んだ。
「馬鹿な、こんな馬鹿げたことが――」
「女神に祈りを、乙女に剣を」
聖句を夜空に唱え、メイは大鎌を振りかぶる。そして――
「人に裁きを、悪魔に死を」
落下するキュルソンの身体を、大鎌が一刀両断した。
*
警察官に肩を抱かれ、鵜飼裕紀がパトカーへと歩いて行く。
「にいちゃん!」
その足が、幼い弟の声に止まった。
おそらく兄が何をしたのか、おおよそを聞いたのだろう。警察官に付き添われた弟の尚紀が、涙に目を溜めて兄を真っ直ぐに見つめていた。しかし兄は応えない。
そんな様子をじっと眺めていたメイは、静かに口を開いた。
「……確かにお前がしたことは罪かもしれない」
裕紀の肩が揺れる。
「けれどそれで守られた存在があることを、そしてお前を待っている存在がいるということを忘れるな」
その言葉に――裕紀は再び歩き出し、静かにパトカーの後部座席に乗り込んだ。
去って行くパトカーをメイは見送る。
するとひらりと、姿を現したベルがメイの首に抱き、囁いた。
「なぁに? やけに優しいじゃない。もしかして『思い出しちゃった?』」
「馬鹿を言うな」
絡んでくるベルの手を払い除けて、メイもまた歩き出す。
「忘れたことなど、一度もない」
*
「『自分だけだったら耐えられた。けれど弟を殴るのは許せなかった』。鵜飼裕紀は、供述でそう語ったそうです」
数日後、教会の院長室にて。院長であるマザー・マルレーネは呼び出したメイに向かって、そう伝えた。
顔に深い皺を刻んだ老婆は、差し込む日射しに目を細める。
「弟が害されそうになった一瞬。そこを悪魔につけ込まれてしまったのでしょう。『恨んではいたけど、それだけではなかった』とも語っています。悪魔の囁きがなければ……と思わざるを得ません」
「――それでも」
休めの姿勢でマザーの言葉を聞いていたメイは、ぽつりと零す。
「父親への殺意がなければ、悪魔の甘言は聞こえなかったはずです」
それは、悪魔に囁かれたメイが、誰よりもよく知っている。
*
「メーイっ!」
院長室を出て外回廊を歩いていると、どこからともなくベルが現れ、いつものようにメイに纏わり付いた。
「難しい話は終わった? 終わった?」
「うるさい。終わったからブンブン飛ぶな。うるさい」
「あっ、ひっどーい! アタシを虫みたいに」
「実際虫だろう」
「えー、今は可愛い女の子だもん」
他愛もない会話をしながら歩く二人を、修道女たちは遠巻きに眺める。
やがて辿り着いた小さな礼拝堂の扉を、メイは静かに開けた。
礼拝堂には椅子もなければ講壇もなく、ただ真ん中に、一つの棺が置かれている。棺の中には、花に囲まれ眠る一人の少女。
「……ニナ」
――妹のニナが悪魔に魂を奪われて、既に5年。ニナの時は止まったまま、悪魔の正体も行方も、未だ掴めていない。
ベルが背後からメイを抱き締め、頬を寄せる。
「大丈夫よ、メイ。アナタにはアタシがいるんだから」
「……あぁそうだな」
その腕を微かに握り返し、メイは礼拝堂を後にした。
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