応挙にも劣らぬ書画の達人だった
『皆川淇園とその仲間たち』 第2回
有斐斎弘道館は皆川淇園が設立した学問所「弘道館」址にあります。でも皆川淇園って歴史の教科書にも出てこないですよね。そもそも何者なのでしょうか。
皆川淇園(みながわきえん)は、京都で1734年に生まれ、1807年に亡くなりました。江戸時代中期にあたります。儒学者(中国の孔子を始祖と する思想体系。日本では武士の学問として広く受け入れられた)であった淇園は亀山藩(現在の京都・亀岡)、平戸藩(長崎・平戸)、膳所藩(滋賀・ 大津)に藩の先生として招かれるほどの知識人でした。「開物学」という難解な学問を創始したことでも知られています(この「開物学」、実は面白い です。その話はまたの機会に…)。
また、書画にも大変優れていたそうで、円山応挙にも劣らず、と評されるほどでした。
そんな淇園が晩年(1806年)に設立したのが「弘道館」です。彼の元には3千人を超える門弟、多くの文化人が集いました。きっと儒学から文学、 芸術、科学までいろんな話題が飛び交う刺激的な場だったことでしょう。 淇園の深い知識と広い視野が、当時の多くの人々を惹きつけたのです。
(勝治 真美)
【2014.2.15 嵯峨野文化通信 第193号】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?