【愛着・AC 克服記録】Column 5-13 愛の証明 (急編 その11)
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【愛着・AC 克服記録】Column 5-12 愛の証明 (急編 その10)
5-13 急変 その11 「当然と寛容。そして『ツミ』とは?」
3-11. ㉑ 当然を解きほぐせば、そこには愛情が待っている
では、どうすれば「当然」の呪縛から抜け出せるか?
仕組みは簡単です。
「膠着した『当然』を解きほぐして、その地面の下に潜り込む」
わかりますかねぇ、ジョジョ好きな人。
絶賛放映中(2019.7月)の第5部アニメの「チョコラータとセッコ」。
彼らのスタンド能力の関係性は、まさにこの関係を描写している。
グリーン・デイ = あるラインを下回ると腐敗して死ぬ
オアシス = 本来潜れないはずの地面に潜り込むことができる
→設定されたラインの下側に行ける
僕としては、荒木先生の怒りが込められてるんじゃないかなって気がします。
「そんなもん意味があるの?」「それって当然でしょ?」
それが蔓延した社会とか、出版業界とか?への無駄無駄ラッシュかなぁ
(ジョジョ文庫版の30巻あとがき [第五部の最初] を読んでほしい)
自分が設定した地面。
叩いても叩いてもびくともしない「当然」のライン。
解きほぐす鍵は、やはり「感謝」です。
「感謝」の雨を降らせましょう。
加藤浩次的に言えば、「当たり前だと思うなよ!」です。
・母親がご飯作ってくれるのは当然→いや、ありがたいな。
・当たり前のように電気・水道・ガスのインフラが整っている
→いや、これすごくね?
・大人になったら働くこと・結婚すること・出産することが当然
→いやいや、それができることは恵まれてるんですな。
と、こんな具合に感謝しまくっていくと…
実は足元にあった地面の下には、「愛情の海」が横たわっていたことに気づきます。
まぁ「愛情と感謝のサイクル」の成立条件が感謝を返すことですから、
自分からどんどん感謝を返していけば、いままで無視していた愛情、小さな価値に気づけるのは理にかなっているでしょう。
これが、母性と父性の象徴的イメージにつながるんでしょう。
母性 = 海、父性 = 山。
山は地面を基準として上に行くもの。まさしく「価値の世界」
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3-11. ㉒ 負の価値はどう扱うのか? ー許すと赦すの違いー
価値軸の話を考える上では、「愛情と感謝」=ポジティブな側にだけ目を向けていては偽善者と同じです。
「憎悪と消滅」=ネガティブな側面も直視して、いかにして「負の価値」の泥沼から抜け出すか、も考える必要があります。
「負の価値」を持つものは、自分に対してネガティブに働く物事です。
そういった物事への対応としては、「消えてしまえ=消滅」が少なくとも当の本人にとっては理にかなっています。
この、「消滅」というものも結局相手に「無」を返すわけですが、「当然」とは全く意味合いが違う。
「当然」がもたらす「無」は、受動的であり無意識的です。
(ex. 無関心、無知、無理解)
一方、「消滅」がもたらす「無」は、能動的であり、意識的・攻撃的です。
(ex. 抹殺、排除、追放、殲滅)
しかし、負の価値を持つものを片っ端から消し去っていくと、自分自身の正の価値を常に保ち続る必要があるので極めて息苦しい。
さらに、「次は自分の番だ…」という不安や恐怖が蔓延していくでしょう…
ではどうするか?
そこに出てくるのが、「ゆるし」です。
(私、クリスチャンではないです。ちょっと田舎の電柱とかの黒と黄色のあれじゃないですよ笑)
↑黒と黄色のあれ
すごーくポイントになるのは、「ゆるしには許しと赦し」の2つの言葉があること。
これは、あくまで酵母マン的な解釈であることは前置きしておきますが…
「ゆるす」という概念を、「境界を越えること」「時間的側面」「誰のためのゆるしか?」という3点で考えると、意味=中身の理解がとてもしやすいです。
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A. 境界を越えること
一般に「許すは『赦す』の概念を含んでいる」といいますが…
ちょっと考察が足りないのでは…?と個人的には感じます。
(歴史的な用例などを考えると、けっこうむずかしいのかなぁ…)
まず、日本語の「ゆるす」の本質は、境界を越えること、という意味です。
(意味=中身です)
(英語の "permit" も全く同じ意味です。per [完全に] -mit [通過する])
設けられた境界・関所を通過してもいいか?
・ある行動が、ルールに設けられた境界・関所を通過しても良いか?
→許可("越境すること" が "できる")
・ある行動が、集団・個人個人の価値のボーダーラインを越えるか?
→許容 ("越境すること" を "受け容れる")
・ある基準を満たしたか?
→免許 ("さまざまな課題をすり抜け = 免れて" 合格ラインを "越境する")
このように、「許す」(permit, allow)には、「内から外へ境界を越える」という方向性が見られます。
一方、「外から内へ」という場合も「許す」をつかいます。
・敵の侵入を許す→外と内の境界が突破された状態
・ある行動を、内側のものとして受容できるか?
→許容 (”越境したあと" "受け容れる")
・心を許す→心の中の境界・壁が低くなり、入りやすくなった状態
そして…
・一度外側へ追放したものを、再び内側に入れる(容れる)
→罪人を赦す (forgive, pardon)
この場合のみ、「許す」という越境的概念に加えて、「罪」という概念が加わります。
おそらく、これが「許すと赦すの包含関係」の説明としては合理性があると思われます。
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B. 時間的側面
続いて、「許す」と「赦す」の時間的側面を考えます。
ここからは、「許す」と「赦す」は大きくニュアンスが異なる概念となります。
時間軸を加えて、先程の包含関係を見直すと、「許す」と「赦す」は異なる概念であることがわかります。
まず、「許す」
これは、「これから起こる = 未来の出来事に対する『一度目』の "越境"」です。
ポイント1. 「その出来事が起こるかどうかは未確定」ということ。
未確定だからこそ、その出来事を行う当事者の精神的負担も少ない。
特に、ルールに関する越境=許可(禁止の緩和)が実現しなくても、「あぁ、苦しい…救われない」という重荷はそこまでない。
ポイント2. 「許される人は許す人と同じ『内側』にいる」
「許す」の場合は、許す人と許される人は規範・共同体の枠の同じ側にいて。
許可が下りることで被許可者は「外側」に出られるし、禁止が続けば許可者も被許可者も同じ「内側」にとどまるわけです。
その意味で、「許す」の越境は、内→外の「一度目」なんです。
また、許可が下りていないのに越境する = ルールを破ることで、許可者にとっては、未許可者は「外側」の人になる。
外→内の許す(外敵・心の壁)の場合は、許可者と被許可者のウチソト関係は異なりますが、「未来」の「一度目」の越境である点は同じです。
一方の、「赦す」
これは、「既に起きてしまった = 過去の出来事に対する、『二度目』の "越境"」 です。
ポイント1. 「その出来事が起きたことは確定している」ということ。
確定済みだからこそ、その出来事を行う当事者 = 罪を犯した者の精神的負担は大きい。
一度ルールを破り、罪を背負ってしまったという事実は、変わらない。
だから、「あぁ、苦しい…救われない」という重荷を下ろすことは難しい。
キリスト教的な原罪、ってのはここですよね。
旧約聖書の冒頭で、既に人類は罪を犯してしまっている。
そして、楽園から追放されている。
その、過去の出来事を覆すことは…できない。
ポイント2. 「許される人は『外側』、許す人は『内側』にいる」
「赦す」の場合は、被赦免者は規範・共同体の関所を自ら破って「外側」に出てしまっている。
赦されることで被赦免者は初めて「内側」に戻ってこらえるし、罪が赦されない限り「外側」にとどまる続けるわけです。
その意味で、「赦す」の越境は、内→外→内の「二度目」なんです。
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C. 誰のためのゆるしか?
ここが、「ゆるし」の概念の本丸です。
「未来の出来事に対する許す」は、「許される側のため」の行為です。
許す側には、特段良いことはない。
(その後感謝されるとか、お返しがあったり利益がある、ってのはまた別の話)
一方で…
「過去の出来事に対する赦す」は、「赦す側・赦される側双方のため」の行為です。
赦される側だけでなく、赦す側にも良いことがある。
それは「過去への囚われからの解放」です。
ある人が罪を犯してしまった時。
罪を犯した側に「やってしまった…」という認識があるだけでなく。
↑無いやつも多い笑
その罪の被害者、あるいは規範・共同体にも「身内から犯罪者が出た」「傷つけられた」という「負の価値を持った事実認識・記憶」が形成されます。
こういった「負の価値を持った事実認識・記憶」がある限り、被害者も、共同体も、過去からの重力=トラウマに引っ張られて、未来を向いて進めない。
すなわち、罪を「赦す」という行為の本質は、「過去への囚われを解消する最終ステップとして、罪を犯した当事者と自分自身・共同体との『断絶を解消』し、内側に取り込んで『連続性を再び生み出す』」ことにあります。
だからこそ、「過去の罪を赦す」のは、自分自身のための行為なのです。
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3-11. ㉓ 「ゆるすこと」と「受け容れること」の順番 ーいつ、ゆるされるのか?ー
「許と赦」
「免と容」
この4文字の漢字を使うと、それぞれの組み合わせで4つの熟語ができます。
「免許と赦免」
「許容と容赦」
これ…気づきますかね?
言葉の順番が違うってこと。
これは、そのまま「これらの言葉には順番がある」ことを示しています。
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A. 免許と赦免
免 = まぬがれる。良くないもの・災害から逃れること。
(免除、免税、免疫、免震、免職、放免、御免)
「免許」の場合、それは「設定された課題 = 試練」です。
あるいは、「本来は禁止されている規則」ともいえます。
免れるのは、「免許を受ける側」です。
そして、「許す = ある基準を満たしたことを認める」
許すのは、「免許を授ける側」です。
概念的な順番が、「免れる」→「許す」なんです。
わかりやすくいうと。
本来、法律的には自動車を運転することは全ての日本国民が禁止されている。しかし、何らかの課題をクリアしたり、条件を満たすことで、「禁止事項から免れる」わけです。そしてその先に、車を運転することを「許される」。
あるいは。
剣術とか武道などの、時間をかけて修練するものの場合。
むやみやたらに「真髄」を伝えることは、禁止されている。
でも、実力を持っていたり、礼節を守るなどの修練を経ることで、禁止事項を「免れる」。だから、真髄を伝えることを「許されて」、「全てを伝える」となる。
これが、「免許皆伝」。
言葉とは面白いもので。免許という言葉は、「許されることを免れている」というわけではないんです。
「Aが免れた(試練をクリアした)。だから、Bは許した(認めた)」
という、主語が入れ替わった2つの出来事が並んでいる不思議な言葉なんです。
だから、動詞が2つ並んでいるけれど、「免許する」という動詞として用いることはできないのです。
一方、「赦免」。
何を免れるかといういうと…それは「罰」です。
免れるのは「罰を受ける側」です。
そして、「赦す = 過去に罪を犯したものを認めること」
赦すのは「罰を与えた側」です。
実はこの言葉も「許す」と「赦す」の概念が重なってしまっていて…
おそらく、法律・宗教に関することであるから「赦す」の文字を使っているんでしょうが…
「"罰を免れること" を "ゆるす"」という概念ならば、「赦免する」という動詞としてつかえます。
ただし、それは免れる、という未来の出来事への許可なので、本来なら「許免する」という語のほうが適当でしょう。
そして何より、「罰を受けることを免れた者」は被害者や共同体からは、精神的には「赦されていない」んです!
伝わるかなぁ…この概念。
社会のシステムとしての赦免においては、罪人を許しているのはあくまで罰を与える司法側であって、当の被害者・共同体との間にはズレが生じているんですよ。
例えば…
殺人の罪で刑務所に収容されていた人が、なにかしら政治的・システム的理由で、「赦免」されるとする。
この場合、彼は「罰を受けることを免れる = 未来の刑罰を回避する」ことを「許されている」わけです。
でも、殺された人の遺族が彼を「赦すかどうか?」は、システム上の赦免とは全く別次元です。
つまり、「過去に犯した罪そのものを免れる」ことを「免れる」かどうかの道は、唯一、当事者同士の意思疎通の中にしか残されていないのです。
では、本当の意味での「赦免」とは?
それは、当の被害者・共同体が過去のトラウマを克服し、罪人を赦した時です。
そして、当事者から赦されることで初めて、罪人もまた「過去の罪」から本質的に免れるわけです。
この本質的な意味での「赦免」においては、
「当事者が罪を赦す(精神的な解放)」→「罪人が過去の罪を免れる(精神的な解放)」
という概念的順番になるわけです。
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B. 許容と容赦
容 = いれる。現代の辞書では「入れる」と同じ意味とされるが、ある範囲・体積を持ったものの中に取り込む、という意味 = 中身と捉えるのが良いかと。
(ex. 受け容れる、相容れない)
(漢字にするとわかりやすい。容器、内容、受容、寛容)
まず、「許容」。
これは、2つの意味に解釈できる。
1. 「受け容れること」を「許す = 許可する」(漢文で言うレ点ですね)
2.「許す」、その後に「受け容れる」(許→容の順番)
↑これ、どちらにしても、「許すことで初めて、受け容れるという作業に移行できる」という点では同じなんです。
また、
「許容範囲」とは言うけと、「容赦範囲」とは言わないように、
「許容」という概念は、「容赦」と比較して出来事(過去)へのとらわれが少なく、比較的現在→未来の建設的な「価値判断」の意味合いが強いわけです。
「浮気は許容範囲ですか?」と「浮気は容赦できますか?」を比べるとわかりやすい。
浮気の「許容」を考えようとすると、「一般的」にはどのへんが落としどころかな?とか、浮気することのメリット・デメリット、はてには「まぁまぁ許してあげなよ」というなし崩し的な感情すらちらつく。
比較的他人事にもなりやすい。
その分、「過去」にとらわれず、「これから」の方向に話が向きやすい。
一方で、「浮気を容赦できますか?」と問われると。
話は、「私はこんな痛い目にあった」とか、「あれだけは赦せない」など、個人的・具体的・感情的な「過去」の話になりやすい。
そして、話の方向は「過去のとらわれ」とか「浮気した人の人格否定」など、排他的・攻撃的な議論にシフトしていく。
話の重さは、「許容」<「容赦」になってきます。
では、それはなぜなのだろう?
はて、一方の「容赦」。
こちらも、2つの意味で解釈できます。
1. 「赦すこと」を「受け容れる」(漢文で言うレ点ですね)
2.「受け容れる」、その後に「赦す」(容→赦の順番)
↑これ、どちらにしても、「受け容れることで初めて、赦すという作業に移行できる」という点では同じなんです。
さらにいうと…
「受け容れる作業が完全に終了した先に、『赦す』という段階が訪れる」
と解釈できます。
これが、「許容」と「容赦」の本質的な違いです。
「許容」には、「許せない」という選択肢があります。
それはなぜかというと、「実際には起きていない、『未来の仮定』の出来事だから」
だから、理性的に「浮気は許せないなぁ」という話ができる。
一方、「容赦」には「赦す」という選択肢しかありません。
なぜなら、「赦す」の前段階として、「受け容れる」という判断があるから。
「容赦」という言葉は、非常に重くて、「過去の出来事を『受け容れることができますか?できませんか?』」
ということを問うているわけです。
これは…重いよ。
受け容れることができないから、冷静な理性的判断ができず、感情的方向に話の矛先が向いてしまうわけです。
様々な苦しみを克服するのが難しいのも、この「ゆるし」と「受け容れる」の概念の交通整理ができていないから、というのは大事な指摘事項じゃないですか?
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3-11. ㉔ 「許して、受け容れ始める」から「受け容れて、赦し終わる」まで
こうして考えると…
「許容」→「容赦」の順番であることが、よくわかります。
特に、過去のトラウマ・辛い記憶を「赦す」ためには…
まず、「受け容れること」そのものに「許可」を出す必要があります。
そして、そこから初めて「受け容れる」という長く連続的な作業が始まります。
徐々に、徐々に…受け容れる作業を続け、100%受け容れることができて、初めて、その物事を「赦す」ことができるわけです。
どうやったらうまくできるの?
それは、個人的レベル・集団的レベル・社会的レベル問わず、「過去をうやむやにしないで、しっかり議論し、説明し尽くす」
以外の道は無いでしょう。
説明し尽くし、全てが白日のもとにさらされることで、「赦し」という作業は終わりを迎える。
そして、その「明るみになった過去」が「真っ暗な未来」を照らすことで初めて、「良い道を選択して前に進む」ことができるわけです。
もし、「過去は暗いけど…未来は明るい気がする」という人は気をつけたほうがいい。
一寸先は常に闇です。
未来の道を照らし出す唯一のものは、「明るみに出た過去」です。
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3-11. ㉖ 「罪」とは? ー「負の価値を持つ過去の行為・存在」
ここまで見てくると、「罪」の本質も見えてきます。
これは、古代・近代の法体系で明文化された、処罰の対象となるものだけではないです。
「罪」の概念には、極めて個人的な感情も含まれる。
その全てを一言でいうならば…
「負の価値 = 自分をネガティブにする『過去の行為・存在』」
と定義できるでしょう。
だから…
・自己否定している人は、「過去の自分自身」に罪を感じている。
・毒親的概念は、「自分の系統」そのものに罪を感じている。
→ 親を精神的に罰する。しかしその結果として、その系統の末端である自分自身をも罰する、という自己矛盾に苦しむ。
・自分が所属する共同体・民族・国家を赦せない人は、過去の行為に罪を感じている(祖先に対しても、罪を感じる人もいる)
・(これは危険な議論だが…)「価値が無い」と感じる対象 = 被差別者やさまざまな理由で競争的社会からドロップアウトしている人
→ それを「無価値だ!そんなやつらに○※△…!!!」という人たちは、無意識に被差別者を「罪を抱えた人」と捉えているのでしょう
(だから、『赦せない!』という判断基準に繋がる)
許し方・赦し方は書いてあるので、参考にして~
(ちょっと書くのに疲れている…)
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3-11. ㉕ 寛容という名のホワイトホール
「許す」と「赦す」の意味をときほぐすことで。
「負の価値をもったもの =罪の対象(罪人)は、共同体の中に存在できる状態」になるわけです。
つまり、「罪」の概念を広げることで、共同体から敵視されるもの・忌み嫌われるもの・無視されるもの全てが、「ツミ」と捉えることができる。
この「ツミ」を解きほぐすものが、「寛容 = 広く受け容れる」という概念。
こうして、すごく長くなりましたが、「当然」と「ツミ」の2つの問題を解決することができました。
ちなみに…未来の負の価値とは?
例えば浮気。
過去、特定の人がした「浮気」を「赦す」ことと。
この先の未来、まだ未確定な人がする「浮気」を「許すこと」。
これは、全く別の概念なので、「(過去の)浮気は赦すけど、(未来の)浮気は許さない」ということが論理的に正しく両立可能なわけです。
それは、戦争・殺人などの負の歴史も同じ。
「過去の罪にどう向き合うか?」という「赦し」と。
「未来に生じるかもしれない罪をどう防ぐか?」という「許さない」。
これらも、問題なく同時に、論理的に成立するわけです。
もし今後、「ゆるすのか、ゆるさないのかはっきりしろよ!」
と、お馬鹿さんが言い出したら。
「過去は過去、未来は未来。あなたも、少しは賢くお成りなさい♪」
と、心の中で解呪の言葉を投げかけましょう。
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Column 5【愛の証明】
5-X 急編 「人を愛し、人の世を生きるとは? 」
5-14 急編 その12 「価値の横糸の正体は」→「縁(えにし)」