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【愛着・AC 克服記録】Part 11 無の克服
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「ながらで克服!」〜愛着障害・アダルトチルドレンを克服した中の人の話〜
#015 無の克服 その① (Part 11 解説)
note (Link) Radiotalk (Link)
#016 無の克服 その② (Part 11 解説)
note (Link) Radiotalk (Link)
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(2018.10.20 Twitter より推敲・再掲載)
11-1. 前置き
さて、これまで、愛着障害・AC の克服、もっと言えば、あらゆる生きづらさの克服につながる話をしてきました。ここまでは、僕自身の感覚としても、論理的に矛盾なく、絶望に到達しました。
これ以降は、絶望まで到達してない人は、読まないでください。
ここからは、少なくとも僕は聞いたことがない概念です (前にちょっとツイートした時も、面白い発想というお返事をいただきました)。
これはいわば、発明です。
なぜ発明かと言えば、「論理的に根本的な瑕疵を持っている」可能性があるから。
ですので、僕は可能な限り、論理的に、丁寧に論を展開していくので、
「それはおかしいんじゃないか?」という点があればぜひご指摘いただきたい。
この一連のツイートを見た方に、限りなく厳しい審査員になってほしい。
僕自身、この理論に縋るしかないのです (←依存)。
(再掲載時注: 今は自信があります。これは、真理の一端です)
しかし、よくこの状態から、生還できたものだ。
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11-2. 愛着障害の苦悩「愛って、なんですか?」
本題に入る。
そもそも、「最後の感情」すら解放してしまったから、虚無が現れたわけで、とりあえず一歩戻ってみる。
そこには「とにかく寂しくて、飢えてて、満たされない」赤ん坊の自分が震えている。
この無垢な子供が欲しているものが満たされれば、そもそも問題はないのだ。
それは何か?
非常に月並みですが、「愛」なわけです。
でも、月並みであるがゆえに、あらゆる創作物に、J-POPに、ドラマの中に、歴史の中に、宗教の中に、最もありふれているのに。
「誰も実態を説明できない」
いや、それはただ自分が知らないだけで、誰かがもう解き明かしてくれているかもしれない。
Q: 研究者はその時どうするか?
A: とにかく調べる。
― ― ― ― ― ― ― ― ―
本当に、本当に、ツイッターの存在には感謝しかない。
アカウントを開設した翌日 (10.08)、ふと「愛着障害」で検索したときに、何気ないツイートが目に止まった。
(ぷーしまさん)
個人サイトだけどうつ病(愛着障害)が回復していくまでの過程をロードマップにまとめたすごい画像を見つけた。
(「はじめに」の下の、「自分の心が変化するプロセス」にあります)
https://seesaawiki.jp/love_and_design/
そのサイトには、「愛を獲得する」までのステップが書かれていた。
それも、書籍を読むだけで良いというから驚いた。
だが、何かがおかしい。
その前段階までの内容はよくわかるのに、「愛」の項目になった途端、具体性が消える。
ただ、書籍の見出しだけが並んでいた。
(この管理人の方はどうなったのか?謎)
彼は行方不明だが、大事な痕跡を残してくれていた。
それを辿る。
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11-3. エーリッヒ・フロム「愛するということ」を読む
(画像掲載許諾準備中。これも載せたいなぁ)
エーリッヒ・フロム著「愛するということ (紀伊國屋書店)」(amazon Kindle 1080円)
amazon のレビューを見ると、すごいべた褒め。
読むしかない。
正直言うと、1991年出版であり、また翻訳本であるため、いかんせん著者の意図する言葉が伝わりにくい。
「合一 (ごういつ)?、これを目指すらしいけど、…具体的に説明してくれよ」
(Twitter 注: あ、でも今は合一の意図する感じ、肌感覚でわかるわ)
この時点では本書のエッセンスはつかめなかったが、端々の言葉は理解できた。
「愛には "父性的愛情" と "母性的愛情" がある」
→ 前者がいわゆる「条件付き」、後者が「無条件」ってとこか?
(再掲載時注: 愛着障害の人は、母親からの無条件の愛を受けられなかった、条件付きの愛しか得られなかった、という説明がなされます。しかし、何が無条件なのか、どんな条件があるのか?ここをきちんと説明できる人は、いません)
また、「愛は喜びを与える <行為> であり、磨かれるべき <技術>」
ともある。
なるほど、愛は習得可能な技術なのか。
でも、すぐに気づく。
「それは "無条件の愛" を受けて育った人限定だ、なぜなら僕には、愛がわからない」
本書にも書かれている。
「母親の愛があるのは神の恵みのようなものであって、もし母親の愛がなく、人生が真っ暗になってしまったとしても、どんなことをしても創り出すことはできない (652ページ, Kindle)」
結局僕は、後半の技術のところに行き着く前に、読む気力を失った。
でも、引っかかりもあった。
「愛が抽象的概念とか、気持ちではなく、行為や技術なら、何か足りないパーツが見つかれば習得できるんじゃないか?」
克服した今、本書をめくると、そこには "ほぼ真実" が書かれているように感じる。
この本で愛の勉強を始めた頃のツイート (絶望感すごい)
(2018.10.11)
(愛着障害と AC の構造を考える中で)こう考えると、それぞれの解決策が見えてくる。アダルトチルドレンは "心" の傷を癒しつつ、"頭" の暴走を止めて、心と頭を擦り合わせていくのが効果的だと思う。一方、愛着障害は "無条件の愛" さえ手に入れば良い。で、それは何?どうしたらいい?
細かく見てみる。例えば「自己否定と肯定」。これは "心" が感じた感情ではなく、暴走した "頭" の判断だ。だから効果的なのは、カウンセリングやノートへの書き出しを通して、今の感情をしっかり理解し、「"心" を非難するのは自分の暴走した "理性"」の構図を認識すること。でも結局、"心" は満たされない。
次、「自分を愛する」。一見、愛着障害に効果的と思われるが、僕は効果は薄いと思う。なぜなら、「自分を愛する」ことができるのは、心理的に良い状態の時だけで、"良い状態の自分" なら愛するという条件がついてしまう。この構図、これは良い子なら愛する母親と同じ行為。毒親家族と一緒の、「条件付きの愛」だ。でも、仕方ないよね。それしか知らないから。
では「全てを受け入れる」ならどうか?たしかにそれなら、無条件かもしれない。でもこの行為は、受け入れることが良いんだ、と "頭" で判断するだけで、"心" には届かないと思う。そして何より、全てを受け入れるという態度は、結局 "心" の声を無視してしまうじゃないか?嫌なものは嫌、まで受け入れるとか、最早気持ち悪い。無条件の愛とは、"心" が当たり前のように感じないと駄目なんだ。
なので、今は無条件の愛を得る方法を勉強していますが…正直、絶望的状況。エーリッヒ・フロム著「愛するということ」の序盤だが、"(無条件の愛は) どんなことをしても創り出せない" だってさ。まじ勘弁ですよ…
ではパートナーを作れば解決するか?それは…否でしょう。赤の他人が自分に向ける愛情を、"無条件" だとすんなり受け入れられる人は、愛着障害で困らないよ。逆説的だが、それができない苦しみなんだ。もしパートナーを通して克服したなら、それは類いまれなる運の賜物だと思います。
無条件の愛って、どれくらい当たり前なんだろう?想像してみる。それはきっと "呼吸" なんだ (呼吸に難のある方すみません)。「毎日意識して、呼吸できるようにがんばります」。この人が無条件に、当たり前に呼吸できる日は来るのか?それと同じレベルの苦しみが愛着障害なのか…無理ゲーですな。
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11-4. ありふれた言葉「感謝」
失意の中でも、探すのはやめたくなかった。
そうゆう、人生の生死の淵にいる時は、目の前を通り過ぎていくものの価値に気づけるのかもしれない。
(画像掲載許諾準備中)
根本裕幸著「敏感すぎるあなたが7日間で自己肯定感をあげる方法 (あさ出版)」(amazon Kindle 1300円)
自己肯定感の概念にはかなり疑問があったが、僕は本書に縋った。
(再掲載時注: "自己肯定感を上げる" という方法は、精神疾患克服の上ではやってはいけない。それは、やる気を "借金" して誤魔化してるだけ)
本書に着目したのは、技術的な部分にフォーカスしてるから。
何か得るものがあるのでは?と期待した。
本書は、7日間のプログラムに沿ってやれば、自己肯定感が上げられるらしい。
(この本もやはり、"無条件" 側のための本ではある)
こうゆうのはだいたい、4日目が本丸で、1-3日目は準備、5-7日が峠のあとのクールダウンになる。
4日目「自己肯定感を高める」
でもそこには、「自分を褒めましょう」としか書いてなかった。
(Twitter 注: "無条件" 側の人達って、本当に幸せだと思う。
自分を、自分で褒めて、本気で満足できるなんて)
消化不良のまま5日目に行くと、これまであまり見かけない言葉があった。
「相手に感謝しましょう」「親に感謝しましょう」
感謝??
市原隼人が好きそうなあれか?
僕は確かに、小馬鹿にしていた。
いやいや、感謝ってなんだよ、当然のことだろ?
でも、僕は、「愛情」だけでなく、「感謝」もよくわからなかった。
でも「当然」のことは、なんかわかる気がした。
キーワードが頭の中で回転を始める。
この本を読んでたのが、2018.10.15 (月) だった。
鬱々と過ごした。
もう、生きていようが、死んでいようが、正直どっちでも良かった。
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11-5. セレンディピティ ― 愛情と感謝がつながっている…?
翌日、10/16 (火) は昼過ぎから体調が悪くなってきていた。
夕方、外での仕事を済ませ、自分のデスクに戻ってきた。
―セレンディピティとは、こうゆうものを言うのかもしれない―
葛根湯を引き出しから見つけて、飲んで、ふと思った。
「あー、これで明日風邪治ったら、ありがてー」
なんか知らんが、感謝した。
…?
ありがたい??
これは「感謝」だ。
でも、なぜ自分は今、感謝した?
てか、何に、感謝した?
思考を進める。
僕は、「明日風邪が治ったら」という状況をイメージして、感謝した。
(実際治ってほしかったし)
そういえば、「愛情」とは、行為だった。
ここでの行為とは?
それは薬を飲むこと、つまり「現在」の行為。
じゃあ「感謝」しているのは誰?
「現在」の自分…ではない。
なぜなら、今は、具合が悪いから。
具合が悪い状態では "なくなる" から、「感謝」の気持ちが生まれる。
つまりその主体は、「未来」の自分。
なんだ、この概念は……
聞いたこと無いぞ……?
まずここで、「時間軸上のズレ」が生じていることに気づいた。
この時は全然気づかなかったけど、これまでの考察を思い出してみる。
「愛着障害・AC」の克服過程は、さまざまな「ズレ」「溝」を元通りにしていく作業だった。
克服作業でズレを完全修復して、「虚無」に陥った。
そして、その先に、逆方向への「ズレ」が生まれたのだ。
もう一つ気づく。
「愛情のある行為」を、「現在」の自分が、「未来」の自分にすることで、
「未来」の自分が、「現在」の自分に、「感謝」している
「愛情」と「感謝」は "双方向的" であり、"2つで1つ"
さらに、これは1周サイクルすることで、初めて成立する。
「愛着障害・AC」ではどうだったか?
「置き去りにされた子供」と「"心を置き去りにした毒親」が「表裏一体」に生じていた。"1つに2つ"。
でも、そこには、何の循環もなかった。
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11-6. 愛情とは?感謝とは? ― 性質を深く考える
思考が深化する。
もう少し、「愛情」と「感謝」の性質を考えてみる。
ここでエーリッヒ・フロム氏に頼る。
「愛情とは "喜び" を "与える" 行為」
もっと噛み砕けば、「相手に "良い状態" になってほしい」という「自分 → 対象」の性質を持つことに気づく。
じゃあ「感謝」は?
有り難い、という言葉に凝縮されている。
それは、「行為・存在」が、ただ、そこに、「在る」ことを伝えている。
ただそれだけで、気持ちにポジティブになったことを、伝えている。
これは「存在の肯定・是認」といった「暗黙の評価者」を前提としない。
ほんと、ただ、そこに「在る」だけ。
「存在への喝采」だ。
葛根湯の場合はどうか?
「愛情」は、わかりやすい。
「風邪が治っている、という "良い状態に" なってほしい」
では「感謝」は?
「未来」の自分は、葛根湯を飲んだという「行為」、その「行為」をすることを「決断」した「現在」の自分が、ただ、「存在してて」良かった。
そう伝えている。
ここで気づく。
つい数分前、自分が打ち勝ちたかったのは、「虚無」。
しかし、今、葛根湯を飲んだ自分が「存在する」、これだけで未来の自分が喜んでいる。
ただ、「当然」のことをしただけなのに。
そうすると、最悪・最低な概念を、我々はどれほど、日常的に「当たり前」に使っているかがわかる。
「当って然るべき」
この発想…まさしく、毒親。
そしてそれに素直に打ち勝つのが、ただ「在る」だけでいい。
この、自分の中での「愛情」と「感謝」のサイクルは、一切の他を必要としない。
今回、葛根湯という "他" が介在しているというなら、
「明日のために早く寝る → 早起きできてありがたい」
完全に自己完結。
なおかつ、その行為は、これまでは「当然」と思っていたのだから「永久機関」。
これはいわば、「安全基地」を自分の中に確立したことになる。
これからどんな困難があろうと、他人に非難されようと、
「早寝 → 早起き」が、すなわち「自己の存在」になる。
ここからまた、立ち上がればいい。
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11-7. 感謝の力強さ ― 果ては宇宙誕生
さらに、「感謝」の力強さに気づく。
「未来」の自分は、「現在」の自分をありがたく思っているわけだが、
その後ろには、必然的に、「過去」の自分がいる
感謝は、1回では止まらないのだ。
突き詰めれば、それは思春期を、幼少期を、乳児期をサバイブした自分が、ただ「在る」だけで良い。
そして、それは「自己の誕生」まで行き着く。
ここで止まるか、いや止まらない。
「自己の誕生」は、これまた必然的に、両親の存在に「感謝」することになる。
それは、母、祖母、曾祖母…と紡がれていく。
どこまでも続く。
明治、江戸、平安、縄文…
サル、ネズミ…
細胞の誕生… (別にこのへんで止めてもいいけど)
DNA、アミノ酸、海、地球、そしてビッグバン。
この壁を超えたければ、再び「神」が登場するわけだが、
もうそんなものは必要ない。
そして「感謝」は行き着いた「過去」の果てから、「未来」へ引き返す。
「愛情」の形で。
地球誕生はやりすぎだが、サルあたりからはもう「愛情」があるんじゃなかろうか。
それは愛着障害の岡田先生も言ってた。
「愛着システムは、哺乳類の生存に必要なシステム」だと。
こうして、「過去」の果てから、「現在」の自分に、「愛情」が届く。
この「連鎖性」。
「正のスパイラル」。
まとめてに入ると、この「愛情と感謝」のサイクルを、自然にできるようになれば、最早生きている "理由" を求める必要がなくなる。
謎が解けてみれば、極めて単純だ。
「負のスパイラル」が行き着く先は、「自己の無」
「正のスパイラル」が行き着く先は、「連続性の存在」
この、太古から連綿と繋がる、連続的な "何か" を感じて合流すること。
これが、「合一 (ごういつ)」なのだろう。
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11-8. 母性とは?父性とは? ― 愛情の2つの形
さて、愛情のからくりがわかったところで、"父性的愛情" と "母性的愛情" の違いを考察する。
前者は「条件つき」、後者は「無条件」
では、条件付きの愛は、悪なのか?
ここで、自己完結可能な「愛情と感謝」のサイクルに戻ると、明確な脆弱性が出てくる。
完全に自己完結 = あらゆる ”他” が入る余地がないのだ。
そう、このままの状態では、ただ、自分がそこに在って、それで終わりになってしまう。
これが、悟りを開いた聖人が、山に籠もってしまう理由なのかも。
ここでもし、目の前にパートナーになってほしい人がいたとして、自分が相手に「愛情」を注いだとする。
もしそれが「感謝」として返ってき"たら"?
そりゃもう、万々歳ですよ!
つまり、条件付きの愛は、他者と交わるために不可欠であり、それゆえに大きな力を持っている。
もし、自分の中に、条件付きの愛しかないならば、それを失うなどありえないから、依存する。しがみついて、離さない。
でも、どこまで失っても、今は行き着く先がある。
自分という、時間軸に戻ってこれる。
つまり
"父性的愛情" = 条件付きだが、力を "与える" (この方向は自分 → 対象)
条件が厳しいほどに、その力も大きくなる。
放射的であり、発展的だ。
"母性的愛情" は?
実は、自己完結的であり、外に出ていくものではないが、永久に、連鎖し続ける。
そう考えると、未来から感謝が戻らなくなったところが、死。
連鎖の終結が、死、となる。
これは、生命とは何か?という生物学的の謎にも繋がる答えな気がする。
僕はとりあえず、この辺で満足です。
自分が何をしたらいいかもわかったし、その先に何が待っているかもわかったし。
もう、あの、依存に固執していた状態には、死んでも戻りたくない。
僕は "無条件の愛" を獲得する技術を身に付けた。
これからは、"条件付きの愛" といかに付き合うか、そのライフハック術との闘いになるだろう。
終わり
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
11-9. 【補筆】
少し足りないから、補筆。
実はですね、この概念は、これまた我々が ”当たり前" だと思っていたところに疑問を呈するのです。
(いま気づいただけですが)
① なぜ愛されないのか?
まず、よく聞くフレーズ
「こんなに愛しているのに、愛されない」
愛情の結果返ってくるものが、感謝であることを考えれば、まず納得ができる。
ではこの状況の何が悪いのか?
1. 愛情を注げば、愛情が返ってくると思っていること。
これはダメですね。つまり仮に相手が感謝を返したとしても、それが大切なことに気づけない。「当然」だから。
2. 相手の中に、感謝が生じていない可能性。
こちらの方が多いのかもしれない。
相手がありがたくない行為、自分本位の行為を、愛情と勘違いしている。
3. 愛情は、自発的にしか生まれない。
自分の与えた愛情を、相手が本当に嬉しいと思うなら、感謝を返した後、今度は相手から自分への愛情が注がれるでしょう。
単純に、相手が自分を愛してないだけなのでは?
② 母から子への愛情とは?
もう一つの謎が、「では母親の、子に対する愛情は何なのか?」
これですよ、いや、ここに "当然" を感じていたからこそ、言葉に惑わされていたからこそ、謎が解けなかったんだ。
答え
「自分 → 他」の愛情はすべて、条件付きな父性的愛情。
つまり、母親の、子供に対する愛情も、実は父性的愛情、になる。
おかしくないか?母親は、子供に、どんな条件を求めるのだ?
ここもまた、言葉に惑わされている。
無条件の愛の「無条件」は、自己完結。
だから、感謝が返ってくるのが自明で、それゆえに「無条件」
条件付きの愛の「条件」は「返ってこない "かもしれない"」
この、返ってくるか、来ないかが、「条件」
でも、これはさっきの証明の中で出てきてしまっているが、
本来、母から愛を受けていない僕が、今この時点から「愛情と感謝」のサイクルを一歩始めた瞬間に、「母親」への感謝が返るのです。
だから、母親から、子供に、"父性的愛情" がうまく伝われば、子供は親に感謝を返す。
(ここをもう一段深めた考察を、コラム【愛の証明】に書いてます)
読み返してみても、言葉遊び感もある。
でも、今の所は矛盾が無い気がします。
見つかったら教えてください。
終わり (再)
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Column 5【愛の証明】
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