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【文章を最後まで読ませるには?】リズムとユーモアを意識しよう(2017年9月号)
※本記事は2017年9月に掲載された藤原正彦先生のインタビュー記事を再掲載したものです。
独自の感性が発見したものを書く
入選するエッセイとはどんな作品だろうか。藤原正彦先生によると、その正体は感性だと言う。
「入選するのは、独自の感性や視点が出ている作品です。そういう文章を書く人は、人と同じ景色を見ても、人とは違う感じ方をしている。感動や共感は当たり前で、家族の死を書けばたいてい感動的な話になる。
学生時代、僕はそれまで女性の裸を見たことがなく、悪友にストリップ劇場に連れていかれたのですが、最寄り駅を降りた瞬間、日本中の人が自分をいやらしい人間だと思っているように感じた。みんなが軽蔑しているようで体が火照った。この話はエッセイにも書きました(笑)。独自の感性が必要ですね」
こうした感性を磨き、それを言葉としてキャッチしてエッセイに盛り込みたいところだ。
「そういう感性があれば、そこからよい言葉が出てくる。エッセイの4〜5枚の中に、『そんなものの見方があるのか!』『そんな感じ方があるのか!』という自分ならではの感性から生まれたよい言葉があれば、選考委員はよくぞこの言葉を選んだと感心する。
そうした言葉を発見しないと、入選するのは難しい。『コツコツコツと足音が近づいてきた……』みたいな、文学少女風の凝った表現はしないほうがいい。そういう技巧をプロなら当たり前に使うので、選考委員は読み慣れている。文章自体のうまさは、そんなに関係ない。それより多少下手でも、胸にぐっとくる言葉があるほうがいい」
最後まで読ませるにはリズムが必要
藤原先生は数学者だが、文章はどのようにして勉強したのだろう。
「父はエッセイを書くと、最初は母に読んでもらっていたようです。ところが、母も作家だから厳しく批評する。それが嫌になって、エッセイのほうは『おまえ読め』となったんです。
毎回、父のエッセイを読んで感想を言っていると、同じ文体になります。だから、『若き数学者のアメリカ』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したとき、友達に『父親に書いてもらっただろう』と言われました(笑)。リズムが似ていたんですね。
今、僕の作品は女房(エッセイスト・藤原美子さん)が読んでいる。彼女は、最初は『箇条書きの美子』と言われるぐらい文章は何も書けなかったが、僕の文章を読んでいるうちに書けるようになり、ついには本まで出しました。今、彼女は『ご主人に書いてもらったんですか』と言われて怒っている(笑)。似てくるんです」
藤原先生は、父親である新田次郎氏に、作家になるために大切なことは何かと聞いたことがあると言う。
「『一番重要なのは、美しい文章ではなく、最後まで読ませること。これができるのが才能のある作家だ』と言いました。うまい文章は練習すれば誰でも書けるようになる。でも、飽きずに読ませるには才能がいる」
では、飽きさせないためにはどうしたらいいのだろう。
「最後まで読ませるには、文章のリズムが重要。長い文章が続いたら読むのが嫌になる。だから、長すぎたら2つに切る。または長文が続かないよう長文と短文をうまく組み合わせて、読みやすいようにテンポよくつなげていく。父は長くても5行、それ以上書いて大丈夫なのは谷崎潤一郎と三島由紀夫ぐらいだと言っていました」
確かに、リズムのいい文章を読むと、ページを繰る手が止まらなくなるが、文章のリズムというのは感覚的なものであり、どうしたら身につくのかわからない。
「文章のリズムは、うまい作家をまねて盗むといい。先ほども言ったように、僕は高校生の頃から父に随筆を読まされていた。感想を言わないといけないから、おのずとしっかり精読する。それで最後まで引っ張る文章のリズムがわかった。
その際、いろいろな作家から盗むのではなく、自分の好きな文体の一人に絞る。乱読してもだめです。一人の作家のすべての作品を読む。何度も繰り返し繰り返し読む。すると、自然に身についていきます」
ユーモアを交え冷静に主張する
人にはない独自の感性と、読み手の繰る手が止まらなくなる文章のリズムのほかに、入選に導くものはあるだろうか。
「あと大切なのは、品のいいユーモア。駄洒落はだめです。違いを定義づけるのは難しいけれど、自慢にならないよう自分を落とすとか、僕なら妻の悪口や彼女との舌戦を入れるとか。ネタに使いすぎて何度か離婚されそうになりましたが(笑)。ユーモアというのは自分をいったん局外に出すという技術なんです」
週刊新潮で連載中の人気コラム『管見妄語』というタイトルも、そもそも「視野の狭い人間が言う不実な言葉」という意味。これも意図的に自分を落としている。
「『国家の品格』の第1章には、『女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです』という一文を入れている。あまり熱く語りすぎると読者は引いてしまうんです。落としたり、ユーモアを交えたりすることで、客観性があることを示す。冷静さを保って主張していることがわかると、最後まで読んでくれるんです」
最後に、エッセイを書く皆さんにエールをもらった。
「書くことは考えることで、考えることは創ること。書くことは非常にいい心と頭のトレーニングになる。客観性が身につき、感性も磨かれる。当落という結果に関係なく、挑戦するのはいいことだと思いますね」
藤原正彦(ふじわらまさひこ)
1943年、旧満州新京生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。
『若き数学者のアメリカ』『国家の品格』『名著講義』『ヒコベエ』等、著書多数。
これは良さそうだと予感させるエッセイ
「ほう!」がある
「ほう!」の正体は、ひとつは新しい情報、つまり、稀有な体験、聞いたことのない話、面白い話。もうひとつは新しいものの見方、つまり、発見、気づき、思索したことなど。
「そうそう!」がある
自分もそう思う、自分のことのようだ、という共感はエッセイに不可欠。内容も大事だが、言いたいことが伝わるまとめ方、切り口、どこに焦点を当てるかも大事。
「スーッ」と読める
やたらと長い文章や凝った表現が続くと辟易とさせられる。一文は短く、一つのことだけを書き「一文一義」を心がける。わかりやすく書くことは最低限の条件。
これがだめだと予感させるエッセイ
経験だけを書いている
事実だけを書いて結論は読み手に預けるというテクニックもあるが、ただ事実だけを羅列しても答えが見えない。問いを作って答えがなければ「だから何?」となる。
筋道が見えない
読んでいても何が言いたいのかわからない、話が結論に向かわず同じところをぐるぐるまわっているような文章はだめ。書きたいことが見えてないとそうなる。
気取った表現が多い
ペダンティズム(ひけらかし)の気持ちは誰にでもあるが、気取った表現やまわりくどい表現は避けよう。技巧や知識をひけらかすのではなく、素直に気持ちを書く。
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※本記事は「公募ガイド2017年9月号」の記事を再掲載したものです。