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すべては電話線の向こうから
「介護」から逃げたわたしだけれど、逃げ切れるものではなかった。携帯電話のなかった時代の電話だけれど、わたしを追い込むには十分だった。
「介護」と言っても
ここで言う「介護」というのは、ひとりで暮らしている重度身体障害者の介護のことだ。
Hゼミのゼミ生の半分以上が介護に入っていた。でもわたしは、自分にはとてもじゃないが無理だと思っていた。このままゼミにいたら、頼まれるのは確実だった。
まだ今のようなヘルパー制度もなく、重度の身体障害者がひとり暮らしをするということが画期的だった頃だ。障害者運動の歴史としては大きく前進した時代だと言える。
「介護」に入るのは健常者の義務で
障害者運動の中で「介護」というのは思想的なことでもあった。そういった背景を抜きには語れないのいで、あえて「介護」とカッコつきにする。
「介護」に入るのは、親切なことやボランティアなどでは決してない。
万が一「ボランティアをしている」などと言うと、健常者の心を満たすために障害者を利用していると糾弾される。
身体が動く人間が、身体が動かない人間のサポートをするのは、ごく当たり前のことで、いいことでも悪いことでもない。
こういう理屈はわたしもわかっている。
でも実際問題、「介護」はしんどいとわかっていたので逃げた。
逃げ切れるものでもなく
Hゼミに通わなくなってから半年以上が経ち、わたしは二回生になった。
二回生になると勉強も複雑になっていく。けれど少しずつわたしが大学に通えない日が増えていた。
でもこの一年をクリアしないと社会学専攻に進めない。進学した目的が果たせなくなる。その上わたしは図書館司書の資格のための科目も選んでいた。
とにかく単位をとって、進まなければならない。必死だった。家から出るのも必死、電車に乗るのも必死、講義を受ける時には疲れ果てていた。
なんとか踏ん張って、冬休みも目前になった時のことだった。
なぜか電話がかかってきて
一本の電話があった。
Nさんからの電話で、明日は介護に入る予定になっているのだけれど、高熱が出てどうしてもいけないので、代わりに行ってくれと頼まれた。
なぜわたしの電話番号を知っているのかと聞いたらHさんが教えてくれたという。
もう逃げ道はなかった。
「介護」に入る予定は何があっても変えられない。障害者に死ねと言っているのと同じことだからだ。
結局、やむなく「介護」という未知の世界に踏み込むことになった。
これもまた、わたしの心に大きな影響を与えるのだけれど、わたし自身はこのことに30年以上気づいていなかった。気づいたのは昨年のことだった。
高熱を出したNさんはすぐに回復したらしく、一週間後には成田闘争に加勢すると言って出かけたことを知った。
成田まで行ける交通費があることがわたしには羨ましかった。
(この話は以前、鍋焼きうどんの話として書いたものと重複しています。)
シリーズ
【坂道を上ると次も坂道だった】
でした。
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