そこに居ること
居ることってあまり意識しない、と思った。
家に居る。これは意識するまでもなくしている。いまもしている。
けれど、その他の場所ではどうだろうか。
家から外に出るとき、どこに居るだろう。
散歩中、カフェで、電車で、駅で、会社で、居るという感覚がしっくるくるものがないことに気づいた。これらは何かをしている状態で、移動中で、仕事中で、歩いている最中で、本を読んでいる状態で、ただ居る状態ではないんだなと思った。
そこに行けば居る。
そんな人が街には何人か居ることにも気づいた。
なぜかそこに居る。話したこともないけれど、その人を知った気になる。
通りかかると、ああ、また居る、そんな不思議な感情が浮かぶ。
いつかの土曜日に美術館にいって、そろそろ見終わるから出ようと思っていたとき、ものすごい雷が鳴って、とんでもない雨が降り始めた。窓から中庭を眺めると、本当にとんでもないゲリラ豪雨だった。ああ、傘もないし当たってしまったな、と思って、雨雲レーダーを見てみるとあと2時間くらい止みそうもないことがわかった。仕方ない。
周りの人たちはざわざわしていて、このあとの予定のこと、駅まで走れば大丈夫、なんてこと話していたけれど、このあとなにもなく、ただ散歩しようと思っていた私は気楽なもので、雨が終わるまでここに居ようと思った。幸い美術館は20時まで開館している土曜日であることに感謝した。
そこから、また館内を回りだして、ソファが置いてある2枚の絵の前に1時間くらい居た。好きな絵だなと思った。何回か来たことがあるけれど、こんなにもまじまじと絵を眺めることはなかった。不思議な感じ。ただただそこに居て、絵を見る。人はどんどん少なくなってきて、そのフロアには私しか居ない時間が多くなっていった。そんな現実にも変な感じがした。こんなに大きな美術館で、このフロアには私しか居なくて、私は一人でこの絵を独り占めしている。外はとんでもない雨で、雷が鳴り止まない。
私はそこに居て、周りから見たらきっとただソファに座って絵をぼうっと見ている人。そうなのだけれど、頭の中ではぐるぐるいろいろな言葉が巡っていて、わくわくしたり、不思議に思ったり、しばらく考えたり、言葉がぜんぶ無くなって絵に吸い込まれたり、忙しかった。
絵から離れて、中庭の見えるフロアに行ってソファに座る。
ただただ雨を眺める。
そういえば、こんなふうに雨をただただ眺めることもない生活だ。
どこに居ても雨はどこかで降っているもので、目の前で降っているのを眺めるなんてことしなくなっていた。外に出ない、窓のない、自然と断絶した生活を送っているのかもしれない、そんな日常に気づいた。
雨の音も、木の肌に、葉に打ち付けられる水滴が弾けていく様も、雨粒が集まって、滝のように流れていく様も、こんなにまじまじと見るのは子どもの頃以来なんじゃないだろうか。
きっとそのときの私はただそこに居る人だったんだと思う。
ものすごい雨で、傘がなくて、すぐに帰るのをやめた。
そんな理由で、閉館までただそこに居て、絵を眺めて雨を眺めた。
私の中ではいろいろな感情が湧いていって、記憶が蘇ったりして、意識は動き回っていたのだけれど、周りから見ればこの人いつまでここに居るんだろう、あ、まだこの人ここにいるよ、なんて思われていたのかもしれない。
そこに居てみるだけで、見える景色はちょっと変わるし、
居てみないとわからないことが多いことに気づかせてくれたのは、
偶然、突然降り出したゲリラ豪雨で、そんな偶然性がもたらす出来事をなによりも大事にしたいと思った記憶。