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真夜中-N
時代小説みたいに軽快に。
淡々と繰り返す生活を振り返ってみながら時代小説の壮絶な展開を混ぜ合わせて考えて絶望する。この人たち、どんだけ怒涛の生活をしているの。どれだけ事件起きるの、絶え間なく。ただただそんな感想が押し寄せる。そんな感想を率直に受け止めるのは馬鹿で、時代小説は怒涛の、ちょうど良い事件が起きては取り組んでいく構成をきちんと考えられていて、それはときに絶え間ない事象の連鎖になるけれども、そこにはたしかに主人公の糧になる出来事が織り込まれていて、次第に複線は回収されていく。それが小説なのだ。
ただ比較するのは良くない。けれどもあまりにも淡々と過ぎていく日々に疑問を抱く。私はあまりにも生活に対して無気力なのではないだろうか。疑問が浮かぶ。
では、どうすれば。
なにかすればいいではないか、と、時代劇の主人公がいう。幕末の動乱から、戦国の殺伐とした世界から、魑魅魍魎の渦巻く平安時代から、そんな声が聞こえてくる。お前は本当に生きているのか、と言ってくる。
たしかに、私はなにもしていない。なにもしていないのは主観的で、私はいろいろしているのが客観的な視点なのだ。そう、私はいろいろしている。しかし、私の感覚で見ると本当になにもしていない怠惰でしかない存在で、その怠惰が自分の生活をつまらなくさせているとしか考えられない。
なかなかうまく運べなくなった生活は小説じゃないみたい。