【エッセイ】オーストラリア的、バイトの心得
「私、あなたのボスにはなりたくないんだけど。」
弱冠二十歳、1学年下のオーストラリア人の少女の言葉だ。この言葉は私の心に鋭く突き刺さり、膝から崩れ落ちそうになった。
ワーキングホリーデー遂行中、オーストラリアの寿司レストランでバイトを始めて一ヵ月が経過した頃、仲良くなった同僚の地元の少女と少し会話をするようになった。ある日、会話をしつつ、私は午後に向けてストックの寿司を作っていたのだが、売れ筋をいまいち掴めていなかった私はそこの店に一年半勤めている彼女にどのくらいの量を準備をしておけばいいか聞いた。彼女にはよく助けてもらっていて、いつも彼女は「こんな感じじゃない?」とフランクに教えてくれる。その時も気軽な回答を待っていたのだが、それは、期待していた言葉とはかけ離れた、冒頭に記したセリフであった。訳したときのニュアンスは怒っているわけでもなく、バカにしているわけでもない。ただ、私の態度に疑問を抱き、あたりまえに思ったことを口にしただけ。というような感じだ。
私は、一年半分私より多く経験のある彼女に聞き、彼女の言う通りにしていたのだが、それはつまり、彼女を私の上司に、日本的にさらに簡単に言うと「先輩」という立ち位置に仕立て上げていた。私はもちろんそのつもりであった。そのつもりというのは、彼女は私よりここで仕事を始めたのは早いから先輩であるという認識を持つということだ。彼女だけではない。ほかのスタッフ全員に対してそう思っていた。しかし、その認識はその、”オーストラリア”という郷では間違っていたのだ。
思い返せば、彼女は「こんな感じじゃない?」の後にいつも続けて「どう思う?」と私に聞いていた。私は、先輩がこう言うのだから、と「こんな感じじゃない?」の後は無視して、「こんな感じ」を「こうである。」に勝手に変換して、忠実に従っていた。彼女は私に考える余地を与え、最終的な判断は私に託してくれていたにも関わらずだ。私は自分で考えるということをせず、彼女の考えをそのまま行動に移していた。それはイコール、私が無能であることを示すだけでなく、彼女に私の行動の責任を押し付けているということである。だからこそ、彼女は、「あなたのボスではない。」ではなく、「ボスにはなりたくない。」であったのだと思う。
さらにそのあと、彼女はこう言ってのけた。
「私とあなたの意見に上も下もない。同じレベルだよ。」と。両手で上下を付けた後、フラットにするというジェスチャー付きで。
私たちの店には店長と、マネージャーというボスはいる。なぜ、彼らがボスなのかというと、私たちの雇用を管理しているからだ。私たちの採用もクビも彼らの権力により握られている。しかし、ただバイトをしているだけの彼女にその力はない。つまり、まだ一ヵ月しか働いていない新人の私と一年半の経験がある彼女の持つ力は同等であるということだ。原理は理解できる。私だって彼女の意見がもし気に入らなければ無視したって何も問題がないことは理解できる。しかし、どうしてもその感覚は理解できなかった。
私も二十歳とはいえ、この二十年間で、あらゆる組織に所属してきた。年上にも、年下にも、歴が長い立場にも短い立場にもなったことはある。その関係性に私は「先輩と後輩」という名をつける。教育的な意味で「どう思う?」というようなやり取りはあっても、一緒に考えようという意味で「どう思う?」と先輩として聞いたことはないし、そのような回答が待っているとは後輩として思ったことはなかった。そして、先輩としての言動には後輩の起こしうる失敗も含めて責任を持ったし、後輩としては先輩へ絶大な信頼を置いていた。特に後輩、という立場になってすぐの頃は自分の考えというものは持ち得ていなかったし、持つべきではない、まっさらな状態であるべきだと考えていた。その状態から成長してから、やっと自我を持っていいのだと考えていた。
さらに私はとどめの一撃もくらっていて、
「そんな感じだとあなたの上を人が踏みつけていくよ。」
と、彼女は私がよくやる会釈を真似しながら今度は手の甲を人差し指と中指で人に見立てたものが歩いていく様を現した。私はペコペコ会釈をするのが癖であり、彼女はそれに対して日本人らしい。おかしくはない。と言いつつも、私にはできないと言った。
根本的な考え方、スタンスの違いを肌で感じ、しばらく彼女の言葉が頭から離れなかった。いや、一生忘れないだろうし、忘れたくない。
自分の英語力に自信はないし、彼女の英語が聞き取れないということが実際にもよく起きるが、この一連の会話だけはよく聞きとった。よく理解できた。よくやった!と自分を褒めちぎってやりたい。この言葉を聞かずして限られた時間のオーストラリア生活を終わらすことはできなかった。
私は変わらず、彼女に尊敬の念を抱き、私と同等でありたいと願っている彼女の意見がちょっぴり上だ。という意識を彼女には隠しながらも抱き続けるだろう。