![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154105092/rectangle_large_type_2_f88c4c16fd045cce9eae35390f2bd7c3.jpeg?width=1200)
英語の次の第二外国語の習得には、その言語や国、文化への愛情や執着が必要
私はタイ語を勉強している。
正確にいうとしていた。
数年前にタイ語をの勉強を地道に開始して、今は簡単なタイ文字は読み書きできるようになった。
タイ文字、初めは象形文字にしか見えなかったけど、慣れると意外と簡単だし面白い。การเรียนภาษาไทยสนุกมากครับ
そしてタイ語をある程度できるようになった今、気づいたことがある。
それはタイトル通り、「英語の次の第二外国語の習得には、その言語や国、文化への愛情や執着が必要」ということだ。
英語と第二外国語の違い
英語の学習と第二外国語の学習。
その習得難易度には差があるのは、前提条件が異なるからである。
そしてそれは私だけでなく、多くの人に共通するはずだ。
英語は学校教育で最低限を教わる
日本人は学校教育で英語を習うのに全然話せない。
とよく言われるけど、それでも全くのゼロということは基本的にない。
例えば、私たちはAからZまでのアルファベットを知っている。
1から10までを数えられる。
この辺りまではほとんどの人が出来るはずだ。
人によっては曜日も言えるし、SVOの文法であることも理解している。
第二外国語では、多かれ少なかれ英語とは文法が違うし、アルファベットも全くの同一ではない。
つまり、シンプルにスタート地点が違うのだ。
特にアルファベットを覚える労力等は最初は壁に感じるので、この差は精神的な意味で馬鹿にならない。
英語は世界の公用語として機能している=特に英米が好きじゃなくても学習の動機になる
英語がほかの言語と大きく異なる点、それは世界共通語として実質的に機能している点だ。
タイに旅行に行くときにタイ語を実用レベルにマスターしてくる日本人は基本的に存在しないし、ロシアに行くときにロシア語をマスターしていく日本人も存在しない。
そんなハードルを課していたら、どこにも行けないからね。
つまり私たちは、世界各国の人とコミュニケーションをとるための最大公約数として、英語を学ぶ。
アメリカが好きじゃなくても、イギリスに興味なくても、英語の学習のモチベーションにはほとんど関係がない。
イランに旅行した時、英語を話すイラン人になぜアメリカが嫌いなのに英語を勉強したんだ?と聞いたら、こうやってアメリカ以外の人と話すためだ。と返された。
世界で最もアメリカと仲の悪いイランでもそうなのだから、当然他の国の人も同じように考えているだろう。
英語は簿記や学歴のような汎用スキル、もしくはシグナリングとして捉えられている
こと日本においては、英語は簿記やプログラミングのような実用的なスキルとして捉えている人も多い。
英語ができるということは努力ができるということだ、という人も存在するくらい、スキルでもあり努力を表す指標だと思われているフシがある。
私が昔面接を受けた会社では、英語を業務で使わないくせに英語で面接をする、なぜならその方が学生が企業にブランド価値を感じるからだ、という理解不能な説明をされたこともある。
ここまでくるともはやスキルというよりはファッションだが、とにかく英語には一つの言語としての価値を超越した価値がある。
第二外国語は、英語のような上記の前提条件を持っていない。よって、これらを代替する要素が必要で、それは愛情や執着が最適となる。
実例①:私が出会う日本語の出来る外国人、ほぼアニメ好き
私が日本にいた時、外資系の企業で働いていた。
海外本社の手先となって働く日本支社には、日本人だけでなく中国人、イタリア人、インド人、シンガポール人等、多国籍な顔ぶれがそろっていた。
このうち日本語ができる人はそう多くなかったが、もっとも上手だったイタリア人はとてもアニメ好きだった。
またタイで出会う日本語通訳も、日本のアニメで覚えたという人が何人もいた。
彼らは日本語を苦行として学ぶのではなく、アニメという日本文化を愛し、その引力に引き寄せられた結果として日本語を身につけていた。
日本に移住してくれる外国人を今後呼び込みたいとなった場合、アニメだけにとどまらない、日本への愛情の引力となるツールが必要だ。
この点韓国はすごく成功していて、韓国のドラマやアイドルが好きで韓国語を勉強している人は、日本だけでなくタイでもすごく多い。
日本の誇れる文化としてアニメの存在は結構だけど、それだけに甘んじていては優秀な移民の取り合いで後塵を拝することになるだろう。
実例②:タイという国で働きたくて、タイ語を必死に学習した。なお今は
私がタイ語を勉強していた理由、それは言うまでもなくタイという国が好きで、タイという国で働きたかったからだ。
何で過去形かというと、もうタイも離れるし、ぶっちゃけていうとあきらめたから。
タイ語はタイ文字をとっつきにくいと思う人多いけど、私からすると古文書を解読しているみたいで、ワクワクしながら勉強できた。
タイ語で難しいのは発音で、これが全くと言っていいほど通用しない。
タイ人は聞き返すときに「あ?」と返してくるのが普通。
これはケンカを売っているのではなく、タイ語での「あ?」は日本語でいうところの「何でしょうか?」に該当するためだ。
とはいえ、せっかく頑張って覚えたタイ語を毎回「あ?」と返されるのは、悪気が無いとわかっていても中々つらいものがあった。
同僚たちは英語もできたし、ついつい英語に頼ってしまう日々が続いてしまった。
日本の隣にあるから中国語?話者人口が多いからスペイン語?成長著しいからインドネシア語?その理由だと弱いかも
実例:これからは中国が成長する!ということで中国語を大学で選択した私は早々に挫折
私は大学時代、第二外国語として中国語を選択していた。
当時はBRICSといって中国、ブラジル、ロシア、インドの成長が予期されており、隣に位置する中国語をできれば就職時に有利になりそうと考えたからだ。
その結果、私は中国語の単位を見事に落とし、翌年再履修で取り直す羽目になった。
だって別に中国語や中国自体に愛情がなかったからね。
英語と同じようにスキルとして扱おうと思ったけど、中国の漢字は形も読み方も日本語と似て非なるものだし、発音も難しい。
英語が持つ前提条件(義務教育で教わっている、世界共通語である、簿記のような実用的かつ汎用的なスキルである)を持っていなかった中国語において、私はそれを埋め合わせるだけの愛情や執着を見出すことが出来なかったし、その必要性にも気づかなかった。私には中国語の才能がない、ということで苦手意識だけが残されてしまった。
幸いにして、私はタイ語だけでなくペルシャ語、ロシア語、モンゴル語等もちょこちょこ学習している。相当なスローペースではあるけれど、それぞれの言語や国、文化に愛情や執着があり、学習の継続を下支えしてくれている。
そうした愛情や執着がある限り、私は学習を継続できるし、少しずつ身につけていくことが出来るだろう。