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母の日の功罪

母の日のプレゼントを初めてもらった。折り紙のチューリップ(カーネーションではない)と、肩たたき券と、それからドラえもんの絵(似顔絵ではない)と。わたし、母じゃないけど。やさしい気持ちを贈ってくれたことがとても嬉しかった。母の日は、やさしい気持ちを連鎖させる。

しかし、行事としての母の日が内包する2つの負の側面についても言及しなければならない。

一つは、それ自体が母親への感謝を子に強いることである。母の日といったら、お母さんに日頃の感謝をする日。どうやっても感謝の気持ちが湧いてこない人には苦痛でしかないし、自分は当然に感謝をするものだと思い込んで、抱えている葛藤を矮小化してしまうかもしれない。それは、自分自身を大切にすることをできなくさせてしまう。悪意のないやさしさの連鎖が、他方で誰かを追い込んでしまう。

もう一つは、母という役割を無償の愛と結びつけ、絶対視することである。何年か前から、この日が近づくとSNSで拡散される動画がある。母という役割を市場労働に見立て、24時間年中無休・無給・ゆっくり睡眠を取ることもできないなどの劣悪な労働条件を提示した後、そんな労働をわたしたちのためにやってくれている母たちに感謝の涙を流すというものだ。改善要求じゃない。現状を肯定し、お金には代えられない価値があると礼賛する。伝統的なジェンダー観が、今も根深くわたしたちの文化のなかで共有されていることの表れである。

母の日がテンプレートとして量産され、消費され、再生産される。
その過程で少なくない人たちを困らせ、怒らせ、社会は進歩せずに同じところをぐるぐる回っている。そろそろ、終わりにしないか。

ああ、母の日ね。テンプレだよね。
そんな苦笑いの対象にしてしまえば、いくらか楽かもしれない。
乗っかりたければ乗っかればいいし、それを冷めた目で見ていてもいい。やさしい気持ちは母の日限定じゃなくていい。つらさも、苦しさも、隠さなくていい。カーネーションじゃなくたっていい。チューリップ、いいじゃないか。

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