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わけあって、急ごしらえの寮生活。

わけあって、急ごしらえの寮生活。

はち切れんばかりのスーツケースは異常に重くて、閑散とした電車のなかでは場違いなほどに能天気に映った。旅行じゃないですからね、と行き交う人々にテレパシーで必死に弁明をしながら、えっちらおっちら辿りついた。

要は、公共交通機関を用いた長時間の通勤による感染(および拡大)リスクの防止のための、職住近接策である。

世間が急速にテレワークに移行していくなかで、ものすごく取り残されていく感覚があった。出勤しなければ何もはじまらない直接処遇の職業柄、若干の僻みとともに、非常事態のさなかに日常を送り続ける心苦しさもあった。
だから、こうして人並みに外出自粛ができるようになったことは、こんな事態におかしな話ではあるけれど、ささやかな安堵をわたしにもたらした。

目と鼻の先に仕事場がありながら、わたしがここで「生活をしている」というのはとても奇妙な感覚だ。これまでの日常とはちがう、どこか緊張感があって、未知なる何かへの期待があって、それでいて、とても静かなのだ。

この静けさが、わたしを駆り立てる。
大袈裟かもしれないけれど、今きっと、わたしはこの静けさのなかで自分と、そしてこの仕事と、向き合うことを求められているのだと考えてしまう。

幸いなことに、わたしはこの仕事を辞めたいと思ったことがない。
感情をもてあましたことはあるけれど、己の至らなさに苦しんだことはあるけれど、サザエさんシンドロームで溜息をついたことだって数えきれないけれど。それでも辞めようと思ったことがない。

それをわたしは「幸いなこと」だと思っていて、とても満足しているのだ。

わたしの仕事は、目の前の子どもたちの生活そのものだ。
だから待ったなしの年中無休・24時間営業で、そこで築く個と個の関係性を核として成り立っている。
それはなんというか、損得勘定やロジックで割り切ったり、美しいものや聞こえのよいもので装ったりできるものではなくて、逃れようのない生身の人間同士のぶつかり合いのような感じなのだ。

子どもたちの生活の一部になるということは、わたしだけがよそ行きの顔をしていることを許してはくれないし、だから当然、わたしの弱さや醜さをも晒す。
それは、受け入れがたく、苦しいことだ。いまだ慣れないし、たぶんこの先もずっと、ままならないのだろう。
それでも、そうやって脇目もふらず、生活そのもののなかにあることこそが、わたしの幸せなのだろう。

この仕事の意味を自問する必要のない幸せを、今、一層強く感じている。

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