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#43 スクラップするわたし|思考の練習帖

今日の #思考の練習帖 のテーマは、当事者性の獲得。
ここのところずっと信田さよ子・上間陽子の『言葉を失ったあとで』の感想文的なnoteを書いてきているのだが、その続きである。

被害者という自己定義

…殴られているひとはどうやって当事者性を獲得してDV被害者という自己定義に至るのか。
信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』

信田さんのこの問いから始まり、上間さんはこう応じる。

腑に落ちないんですよね、被害者という言い方で自己定義することは、たとえば被害者って両義的だなと思うのは、なぜ殴られたかという話をよく聞くんですけど、「自分があおった」って言い方をするんですよ、被害者自身が。
 (中略)たしかに彼女が誘発したなという感じがあったんですね。ここで殴られて警察にぶちこんで元夫が拘留されれば、ものすごく有利にいろんなことが動かせるわけですよね。
 たとえばそういうものを含めて、どう名付けていいのかちょっとわからない。…

これにさらに信田さんが返したのが、次だ。

 …日本ではいまだに、されるほうが悪い、油断があった、あおったみたいな見方が支配的です。痴漢防止だって、被害に遭わないための心得がポスターに張られていますし、どうしてする側へのメッセージじゃないんでしょう。
 それに、DVのような家族や親密圏における加害/被害の場合は、もっと根強くて、自分のほうが悪い、自分が挑発した、と考えがちです。
 ただ上間さんが例にとられた女性の場合は、ある種の女性の側の力の行使みたいですね。誰だって殴られて黙っていたくはないですよ。彼女たちなりに彼らに復讐や反抗しますよね。言葉だったり、あおりだったり、警察呼んだり。緻密に見れば、単純な加害/被害に回収されないことはその通りだと思います。

暴力を受けた当人が、自分を被害者だと認めることは難しい(暴力をふるった当人が自分を加害者と認めることはより一層難しい)。それは、信田さんのいうような社会のメッセージ(「されるほうが悪い」)が強いこともあるが、百パーセント白だと言い切れないような後ろめたさをどうしても感じてしまうのだろう。

そもそも、百パーセント純粋無垢な存在なんてこの世にいるだろうか。
あのとき自分がああ言ってしまったからとか、あんなことをしなければとか、後悔しようと思えばいくらだって出てくるものだ。そういうものが、家族のような親密な関係性のなかでの暴力だとより強くなる。相手を加害者だと断定して「切る」ことに抵抗を感じてしまうからだ。

スクラップ&ビルドを支える

かつて自分に暴力をふるった親を、「自分が言うことをきかなかったから」「大人になるために必要な躾だったと思うから」と庇い、見て見ぬふりをして守ってくれなかった親に対して沈黙を貫く。そういう子どもたちがいる。

自分が被害者であることを認められなければ、相手が加害者であることを糾弾することもできない。謝罪の言葉をもらうことも、償いをしてもらうこともできない。親子の関係は膠着したままだ。
表面上は取り繕うことができるかもしれないが、もやもやとした感情がお互いのなかで蠢いている。そのまま時が流れても、心は止まったまま。

被害を認めることは、問題を直視することだ。
今かろうじて手に残っている家族のような関係性が、ボロボロに崩れ去っていくのに耐えなくちゃいけない。たくさんのものを失ったのに、まだ失うのか。だから蓋をしておきたくなる。
でも、一度崩れ去ったところにしか新しい関係性は築けないのだ。
スクラップ&ビルドを支えられるのは安心を感じられる居場所で、それがわたしの仕事だ。


今日はここまで。


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