こらだになる
〈こころ〉と〈からだ〉は分けて考える。
これがデカルト以来の近代のスタンダードだった。
喉が痛いのは〈からだ〉の痛み。エアコンに当たりすぎたせいであって、誰かの恨みを買ったからじゃない。
失恋の痛みは〈こころ〉の痛み。外科手術では治せない。
〈こころ〉と〈からだ〉を別々のものとして世界を見渡すと、そこに秩序が生まれる。秩序のある世界はとても便利だから、わたしたちはそれを当たり前に受け入れて生きているというわけ。
これは今読み返している『居るのはつらいよ』の受け売りなのだけど。
近代科学というのは決して万能ではないので、〈こころ〉と〈からだ〉をすっぱり切り分けたらそれで万事解決というわけにはいかない。
ここで、著者の東畑開人氏は、精神科医の中井久夫氏に倣って〈こころ〉と〈からだ〉の境界が溶けた状態を「こらだ」と呼んでいる。
ああ、わたしが泣きたくもないのに「泣かされて」しまうのもまた、こらだの仕業だったんだ。
ついこの間のこの投稿。こんなことを書いた。
絶対泣きたくないのに、〈こころ〉の底からは矛盾する危険信号が出ていて、〈からだ〉はそれに反応して涙腺をバグらせる。こらだの出現である。
あるいはそう、癇癪を爆発させて不合理な行動を繰り出す仕事場のあの子も、こらだになっているんだ。
物を投げても人を殴ってもいいことなんて何もないのに、それでも大暴れしてしまうのは。ダメだってわかっているのにそうしてしまうのは。近代科学が築き上げた秩序の隙間のカオスに落っこちて、全身で悲鳴を上げているんだ。
『居るのはつらいよ』の舞台のデイケアでは、こらだになりやすい人たちが集まっているという。
こらだが現れたとき、いつでも他者との接触が有効なのかはよくわからない。
少なくとも泣いているわたしは放っておいてほしいし、癇癪の只中のあの子も体を抱えてもらうことで落ち着くこともあるけど再燃することもある。
もしかしたらわたしが無知なだけで適切な手法があるのかもしれないけど。