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今、人生でいちばん生活している。
夕食の副菜の煮物を作りながら、今日じわじわとそんなことを考えていた。
今までだって生きてはいた。しかし、「生きている」の中に占める生活の比率が限りなくゼロだった。生活するということをなおざりにしても生きていけるなんて奇妙な話だけど、意外とそういう人って多いんじゃないかと思う。
たとえば赤ちゃんはそうだ。
生きてはいるけど、自分で生活しているわけじゃない。お世話してもらって生きている。生かされている。
18歳で実家を出るまで、わたしは赤ちゃんのように生かされてきた。
高校を卒業して、上京して、寮暮らしを始めた。最初こそ気合を入れてレシピ本を買って自炊なんかしてみたけれど、1週間と続かなかった。先輩に連れて行ってもらって外食することを覚え、スーパーやコンビニで出来合いのものを買ってしのぐことを覚えた。それも生活っちゃあ生活だけど、依存先が変わっただけで生かされている状態には変わりない。
寮を出てアパート暮らしを始めたときも、社会人になって引っ越しをしたときも、やっぱり自炊は長続きしなかった。今の仕事に移って、子どもたちに食事を作ることを業務の1つとしてやるようになってからは、確かに調理のスキルや経験値は上がっただろう。でも、それはやっぱりどこか生活とは違う次元に感じられる。毎度レシピと睨めっこして指示通りに作るだけだし(レシピ通りに作れるという力は評価できるとはいえ、それが生活力なのかといえば違う。結局レシピに依存しているだけなのだ)、家に帰ったら相変わらず自炊はほぼしないし。
生活というからには食事のことに限らない。住環境を清潔に保つこともだし、持ちものを管理することもそうだ。
そういうことぜんぶひっくるめた生活という営みを、わたしは本当の意味では全然やってこなかったんじゃないかと気がついた。
今の職場で昼夜なくゴリゴリ働いていた日々から一転して、産休・育休でまったく仕事をしない暮らしになった。子育てという一大事業を抱えて、「ちゃんと暮らさなきゃ」の意識が強烈に芽生えた。
実際、気負っていたような「ちゃんと」した暮らしができているわけでは決してない。手の込んだ離乳食なんて作れないし、お風呂の排水溝に溜まった髪の毛は何日も見ないふりをするし、気づいたらコンビニ飯しか食べなかった日もある。
それでも今、人生でいちばん生活している実感がある。
気負わずに料理をして、続けられている。レシピと睨めっこはもうしない。味噌汁とごはん、焼き魚。その日の気分で調達した食材で、手早く副菜を作る。無理していないのに、気づいたら冷蔵庫の中が副菜だらけになっていてびっくりすることがある(何気に副菜作りが好きなのだと知った)。
掃除は2か月単位で一通り手が回るように予定を組み立てたから、毎日割り当てられたタスクをシステマティックにこなしていくだけ。ルンバのダストボックスを空にするたび、枕カバーを洗うたび、鏡を磨くたび、レンジフードのカバーを交換するたび、心がすっきりする。
生活が自分の中にある感じ。
人任せでも放置でもない。自分で把握できていて、コントロールできている。それがすごく心地良くて、とにかくいい感じなのだ。
今は時短勤務だから、これが可能なのかもしれない。フルタイムに戻ったら、生活はわたしの手からまたすり抜けていってしまうのかもしれない。それって残念だな。心と時間の余裕を持って、なおかつ仕事もがっつりできるのがわたしの理想なんだけどなぁ。
時短のうちに今の「いい感じ」をもっと研ぎ澄ませておこう。