環境ってつまり何のこと?
『生活の中の治療ー子どもと暮らすチャイルド・ケアワーカーのためにー』は、わたしにとってバイブル的な本だ。アメリカの子どもの入所施設での実践をもとにまとめられた本で、日本の子どものトラウマケアの第一人者である西澤哲氏が翻訳をしている。
(もう絶版になっていて、中古本の値段が爆上がりしている)
先日のnoteで書いたように、わたしは今このバイブルの読書ノートを作ることにハマっている。
せっかく読書ノート(アナログ)をつくるので、こちらのデジタルノートの方にも考えたことを書いてみよう。
今日は、第1章(治療的環境の特性)から。子どもたちのココロの発達を支える環境的な要素は何かという話。
本の中では、「自我教育を行うためのサポートを与えてくれるもの」として、4つ挙げている。
関係性
わたし自身、5年間子どもの生活の場で働いてきて実感するのは、子どもとの関係性が物を言うんだよなあということ。
右も左もわからない新人職員に対して、施設での生活の長い子どもたちが舐めてかかるのは自然なことで、信頼に足る大人だと思ってもらえなければ会話はひたすら上っ面を滑っていくだけだ。
だから何よりもまず子どもと関係性を築いていくことが優先課題で、それなくしては仕事にならないと言っても過言ではない。
子どもとの良い関係をベースに、わたしは子どもに対していろいろな働きかけができるし、それに応えてもらえる。本の中では、「(関係性の基盤の上で)大人の持つ自我技術を子どもに『貸す』ことができる」というふうに書かれていた。
モノを一つ受け取るだけのことも、関係性があってこそ成り立つ。知らないおじさんから飴をもらっちゃダメとか、名乗らない人からの電話を信じてはいけないとか言われているように、関係性のない相手からのモノや言葉を拒否することは、わたしたちの自己防衛の手段なのだ。
どんなに素晴らしい支援を用意できたとしても、受け取ってもらえないならば意味がない。
すべてのはじまりに、関係性の構築がある。
とはいえ。
いつもいつも「良い関係」をベースに支援をするのが最善とは限らない。
そもそも「はじめまして」のときには関係もへったくれもないし、あるいは良い関係が築かれた後ですらそれが逆効果となってしまう場合もあるからだ。そういうときには、あえて関係性を武器にしないという選択をしよう。
集団のムードと構造
子どもとわたし、二人きりの世界だったなら、関係性だけで十分だったかもしれない。
しかし、ヒトは社会のなかで生きていく。それに現実問題として、わたしの仕事場は施設であって、子どもたちは一定の集団で暮らしている。その集団を無視して考えるわけにはいかないのだ。
集団にはその時々のムードがある。
ハイなムード、リラックスしたムード、敵対的なムード、協調的なムード…。それは些細なきっかけで切り替わるので、ずっと一定ということはあり得ない短期的な状態だ。
もう少し中期的な状態が構造であって、集団の凝集性やリーダーシップの明確性、多元性などがそれにあたる。
集団が今どんな状態にあるのか。集団のなかの力動を的確に把握して、その波にうまく乗るということもまた、個別の関係性に負けず劣らず重要な要素と言えるだろう。
施設の文化
集団の短期・中期的な状態がムードや構造だとしたら、長期的な状態がこれなのかな。長い時間を経て、子どもたちや職員たちの営みの積み重なりの末に出来上がったもの。
それは伝統と呼ばれたりする。
「ここではこうするんだよ」というルールやルーティンが押しも押されもせずに確固たるものとしてそこにあるということ。自然に受け入れられているもの。そういうものが、段々とできてくるのが集団なのだ。
一方で、文化だから伝統だからと無批判に受け入れるのも危険だ。
それは本当に必要なことなのか?
本当に正しいといえるのか?
自己点検して、柔軟に修正をしていくことが重要だと思う。
子ども自身が持っている自我技術
集団をうまく活用できると便利だ。便利なものには必ず落とし穴がある。
集団の中に、子どもを埋もれさせていないか?
見ているつもりになっていないか?
子ども自身が今どんな状態であるのか、子どもの行動から何が分かるか。そういうことを考慮に入れること。すなわち子どもの状態像を適切にアセスメントすることが大事なのだ。
環境を整えることと、子どもその人と向き合うことは全然矛盾しない。「わたしにはこう見える」だけじゃなくて、いろんな視点を借りながら見てみたい。
子どもとの関係性、集団のムードや構造、施設の文化、そして子ども自身の自我技術。どれか1つばかりを見て「こうだ」と思ってしまいがちだけど、支援の構造はもっと複雑なのだ。忘れないようにしよう。
今日はここまで。