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#14 行動を探すわたし|思考の練習帖

わが家の本棚の自己啓発コーナーを物色する。さくっと読めて、思考を深められるようなのがいい。半年前にわたしが家中をひっくり返して本の整理をしたときに、棚の枠に貼った付箋がそのままになっている。
「思考力をきたえる系」「心理学」「金」「集中力+睡眠」「組織論」…わたしはなるべく自己啓発本は所有しないようにしているのだけれど(ほとんど買わないし、買っても大抵読んだらすぐに手放す)、夫が買い込むのでかなりの数がある。

#思考の練習帖 を始めたきっかけは、「思考力をきたえる系」の本をじゃんじゃん読んで糧にしようという思惑からだった。でも思考のフレームワークをインプットし続けることに行き詰まり感を覚えてしまった。知識としてもっていても全然使いこなせないし、そのときは「ほほう」と感心してもすぐに忘れてしまう。表面的なアウトプットに留まって、あんまり身になっている感じがしない。
そんなちょっぴりマンネリな気持ちでよそ見をしたら、隣の隣の「組織論」ゾーンが途端に魅惑的に映った。前職のときに買った『マネジャーの最も大切な仕事』と『部下を育てる! 強いチームをつくる! リーダーのための行動分析学入門』、そして夫がいつか買ってきた国語辞典並に分厚い『世界標準の経営理論』。

わたしの(密かな)ゴールは、「来月からリーダーやってね」って言われるわたしであり、それに対して二つ返事で「ハイハイ、やりますよ」って言えるわたしである。だからリーダーシップを分解していくことには大きな意味があると思う。
「思考法」に飽きてきたから、そんなわけでリーダーシップを考えてみよう。

主体性ってどこから引っ張ってくるの?

リーダーのあり方にもいろいろあるだろうけれど、「俺について来い!」的な昭和のリーダーより、メンバーの主体性を引き出すリーダーでありたい。
でも、主体性ってほんとうに難しいのだ。
#09 助手席のわたし」でも「#11 モチベートするわたし」でもしきりに主体性を謳ってきたけれど、「じゃあどうすればいいの?」っていう根幹のところがふんわりしていて掴めない。
なぜなら「主体性」は行動そのものじゃなくて、行動の後ろにちらついている意思なのだ。同じ行動でも主体的なものもそうでないものがあるし、「主体的に動いて」と言われた方は何をしたらいいやらわからない。

前述の『〜リーダーのための行動分析学入門』に、目が覚めるような指摘があった。

しかしながら、その一方で、”自主性”や”イノベーション”がお題目になってしまっている職場もあります。
このような職場では、自分から進んですべきことと、すべきではないことが区別されていない場合が多いようです。
”自主性”という言葉が、達成すべき目標ではなく、目標が達成できないときに部下を責める口実に使われ、それでいて、目標を達成すべき具体的な対策は何もとられていないケースです。

「主体性を持て!」と叫んでいるわりに、言っている本人が相手に何を求めているのか実はよくわかっていない問題。具体的に何をしてほしいのかをはっきりさせなければならない。

そこで「新人の部下に何ができるようになって欲しいのですか?」と尋ねると、「自分から動けるようになって欲しいのです」という答えが返ってきます。
「上司からの指示がなくても何か仕事をして欲しいということですか?」と質問すると、「そうです。自分の頭で自分がすべきことを考えて欲しいのです」とのこと。
「でも何をやってもいいというわけではないですよね。たとえば上司の許可なく既存の顧客に営業の電話をいきなりかけても困りませんか?」
「それは困ります」
「ご担当の部署では扱ってない事業について計画を立てるといったことは?」
「それも困ります」

部下だって頭が悪いわけじゃないのだ。好き勝手やったら迷惑だとわかっているからこそ、机にじっと座って指示を待つのだろう。

”自主性”や”イノベーション”をチームの目標に設定したら、それで終わらすことなく、それらを達成するための行動を探しましょう。”自主性”や”イノベーション”は成果(V)なのです。Vをもたらす行動(B)を見つけて増やすことで、Vが達成されるのです。

思い返せば、「#10 怒るわたし」で書いた上司とのすれ違いも、”自主性”の罠の典型といえよう。わたしは指示を待たずに自分にできそうなことをどんどんやっていきたいのに、上司だってわたしの主体性を期待しているのに、「どのように進めるか」の擦り合わせができていないからうまくいかない。
ということは、「どのように進めるか」すなわち行動(B)を明らかにすることで、この不幸なすれ違いは回避できるのだ。そしてチームが主体性を発揮するという目標は達成される。なるほど!

行動(B)を明らかにせよ

取らせる行動を一つひとつ指示してしまったら、そこにはもはや主体性の余地はない(あるとすれば、取るかどうかを選択する余地ぐらいか)。ほんとうに最初のうちはそれでいいだろうけれど、いつまでもそこに留まってはいられないのだ。

わたしと上司の不幸なすれ違いを回避するための具体的な行動はおそらく、「まず仕事の進め方を相談する」だろう。これぐらいならわたしにもささっとできそうだなと思ったとしても、「これをこんなふうにやろうと思いますけど構いませんか?」と断りを入れるということ。
ちょっとしたことだとどうしても遠慮してしまって言い出せないことが多い。それは、せっかくわたしが仕事を巻き取ろうとしているのに、相談することで却って手を煩わせてしまうような気がするからだ。かと言って何もしないのもいたたまれない。これらはわたしの行動を弱化する嫌子である(その逆に行動を強化するのが好子)。

現状考えられる手立てとしては、「まず仕事の進め方を相談する」ためのお互いに負担の少ないやり方を上司と取り決めておくことだろうか。交代制の勤務で会えない日が続くことも多く、会えても忙しすぎて話しにくさがあるなかで、出勤したときに確認できるメモを残しておくとか、チャットを送るが返事は次の出勤時で構わないとか、やりようはいくらでもあるだろう。
お、見えてきたぞ。

こういうことって、ほんとうによくある。
というか、もしかして上司と部下のコミュニケーションの問題のほとんどがこれに収斂されると言っても過言ではないのではないだろうか。「こういうときは、こうしよう」を話し合っておくことで、不毛な遠慮や戸惑いの繰り返しから解放されるのだ。あるいはさらに、上司と部下の関係に限定されない、もっと普遍的なものかもしれない。

今日はここまで。

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