外側からワタシをまなざす

ポジショントークというと、悪しきものという感じがするけれど。
とはいえ、誰しも多かれ少なかれ自分の立場というものを意識せざるを得ない。それが権力に結びついていなくても、そこから簡単に逃れることはできないのではないだろうか。

人が何かを言うのを耳にすれば、それがどういう人物によるものであるのかを結びつけたくなる。自らのその習性を自覚しているからこそ、思わず言葉を慎んだり、心にもないことが口を衝いて出てきたりする。わたしがワタシという立場で言ったら摩擦が生じてしまうことと、どうしても言わずにはいられないことなのだ。

立場としてのワタシに縛られることは、わたしの思考と行動を狭める。周囲との円滑な関係性の維持を助けてくれるのかもしれないが、そこから得られるものの価値はどれほどだろう?
摩擦を回避することは、失敗を恐れることと似ている。
失敗したくないわたしは、摩擦も起こしたくない。怖いのである。

そんなとき自分を相対化することができたら、気持ちが少し楽になる。より大きな構造のなかの一部としてのちっぽけな自分の存在を実感し、構造のうねりに巻き込まれて思考し行動する自分を、外側から見つめるのだ。ワタシの意思だとか主体性だとかと信じ込んでいたものは、実は周囲からの期待や圧力によって方向づけられたものだと気づく。思い悩んでいたことが、なんだかバカらしくも思えてしまう。

その渦中にいるときには、個人的な苦しみを抽象的な概念で説明されるとムッとするものだが、自分でそこに到達したときは、それよりも安堵が勝つ。
ワタシを否定するわけじゃない。ワタシの葛藤や弱さをまるごと受け入れて、より大きな視野を持ってワタシを導くことだ。

だからちょっと冷めた目でワタシを観察するし、本に言葉を探す。ドンピシャリと言い当ててほしいと期待しているのではなくて、ワタシを外側から説明する言葉をより多く知りたいのだ。一言では言い表せなくていい。何千、何万字を費やしてもいいから、わたしはワタシをもっと知りたい。

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