目を逸らすなよ、お前のことだぞ|はやくはやくっていわないで
新品の絵本のタイトルを読み上げておもむろに表紙を開くと、パキッと小気味よい音がする。キュウッと押し固められて製造されたそれが、わたしの手元で空気に触れてほうっとため息をついたように感じた。
顔を近づけたら、新品の紙の匂いがした。
幼稚園の夏休み、年上のいとこたちが読書感想文用の本を探す中、どさくさに紛れておねだりしてお父さんに買ってもらったダンボの絵本を思い出す(留守番していたお母さんの驚いた顔も一緒に思い出す)。
小学校に上がって、友だちが読んでいると聞いてどうしても欲しくなってお母さんに頼み込んで買ってもらった、『ハリーポッターと賢者の石』のすべすべした紙質を思い出す。
図書館の本もいいけれど、新品のわたしだけの本は格別だ。
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「はやくはやくっていわないで」
そう言って、アンニュイな表情を浮かべた船舶は、スイスイ―ッと海上を走る。
人それぞれ、いろんなペースがあるんだから。
まったく。せかせかしないでよ。
周りになんと言われようとへっちゃらそうな顔をしてスイスイ―ッと走っている。…ように見えたけど、そうではなかったと知る。
表情は変わらないし、船舶だけど。
短い言葉を淡々と紡いで走っていくその姿に、胸がチクリとする。
どきどきして、ひんやりして、ちいさくなるその感覚をわたしも知っている。
はやくはやくって押したり引いたりしているとき、相手は人知れずどきどきひんやりちいさくなっているかもしれない。気怠そうな顔をしていても、ほんとうは何かをぐっとこらえているのかもしれない。
へっちゃらなわけがないのだ。
はやくはやくって言うとき、相手のことは見ていない。
間に合わなかったらどうしよう、面倒くさいな、今日の夕飯何にしよう。それは自分のことに忙しくて、立ち止まっていられないときなんだ。そういうとき、人は簡単に誰かを傷つけてしまう。
思い当たるから、チクリとする。
ずっと横顔だったアンニュイなその顔がまっすぐこちらを向いて、「だからさ、あのさ」と呼び掛けてくる。
目を逸らすなよ、お前のことだぞ、と。
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ページをめくるたび、背景色が鮮やかに変わる。
読み聞かせながら思わず、「おおっ」とか「わあ」とか言ってしまう(相変わらずベビーの反応はない)。絵の具の塗りムラが温かくて、何度でも見返したくなる。
温かいやりとりに、だけど胸がキュッとなる。
表情はわずかにほころんでいて、それに少し救われる。
この絵本のタイトルは、「はやくはやくっていわないで」だ。
「まっててくれてありがとう」でも「ゆっくりでいいよ」でもない。もっとずっと切実なる訴えで、読み手の胸につめたい刃を突きつける。ユルめのかわいい絵だと思って油断してはいけない。
船舶は決して声を荒らげないけれど、まっすぐこちらを見て問うている。
目を逸らすなよ、お前のことだぞ、と。
わたしはそう思う。
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