#44 実感するわたし|思考の練習帖
暴力をなくす方法
暴力をなくすための一つの方法として、『言葉を失ったあとで』で上間陽子さんがこんな事例を話している。
暴力は絶対にあってはならないことだが、その道徳規範を子どもたちが学び、理解して、遵守するに至るには道筋がある。大人はどうしても「悪いことは悪い」と教えて咎め立ててしまいがちだけれど、そうではないのだと上間さんは言うのだ。
「悪いことは悪い」と知らしめるより前に、「良き状態」を味わうことが大事なのだと。
言われてみれば、確かにそうだ。
人間の赤ちゃんの感覚は「快」「不快」からはじまる。気持ちがよければ満足し、気持ちが悪いと泣いて愚図って訴える。不快を快に変えてもらうことで、良き状態を知ることができる。良き状態を維持したいと志向できる。
人間を本能的にどこかに向かわせようとするならば、そこに快があることを実感させるのがいちばんということだ。
「ダメ」と言われてもついやってしまうことはある。
「悪いことだ」とわかっていてもやめられないことがある。
いくら頭で理解していても、身体が実感していなければ無理が生じてしまう。
理解することと実感することは違う
ああ、そうなんだよな。
何度言っても右の耳から左の耳で、ちっっっとも改善されないことがほんとうによくある。理路整然と懇々と、なぜダメでどうするべきかを諭しているつもりなのに、全っ然響かないのだ。もう呆れてしまうほど。
それって、理解はしていても実感がもてていないってことなのだ。
実感のもてないことに本気にはなれない。
つまるところ、大人側の覚悟が足りないのだ。
注意をするとか話をするとか、そういう一方的な働きかけは「やってる感」があるけれど、自己満足にすぎない。良き状態を共有すること、これが大事なのだ。
そういう積み重ねの先に、変化が立ち現れる。
良き状態を維持したい、守りたい。内なる欲求が湧いてきたときこそ、変革のチャンスだ。逆に言えば、そこまで待たなくちゃいけない。その状況になる前にいくら働きかけても、暖簾に腕押し、あるいは逆効果にすらなりかねない。自分が「悪いこと」をしているのだと言われ続けていたら、「悪い子」としてのアイデンティティを持たせてしまいかねないのだ。
百害あって一利なしとはこのこと。
必要なのは、なくすための練習
上間さんは次のように締めくくっている。
子ども時代に必要なのは、ダメなことを「ダメだ!」と教え込むことではなくて、「なくすための練習」をすることだった。子どもの失敗を許容して、まっさらな状態からやり直せるように舞台を用意し続けること。これが大人の仕事なんだと思う。
今日はここまで。
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