とりとめのないツツジと追憶
住宅地のなかを縫って歩くと、鮮やかなツツジたちに出逢う。
赤紫が中心に向かってだんだん濃くなっていくさまに、意識が吸い込まれそうになる。忘れかけていた記憶が、ほのかな香りとともに押し寄せてくる。そうだった。かつてのわたしもこの花を、同じ距離で眺めていた。
小学校の通学路に、ツツジが植わっていた。曲がり角のアパートを覆うようにして植えられたその花の蜜の味を、わたしは知っている。ホトケノザの蜜もよく吸った。足元の側溝で友だちとザリガニをつついた。近くの田んぼでおたまじゃくしを乱獲した。おたまじゃくしは家の玄関で飼った。かつお節をあげていたらそのうち足が生えてきたので放した。クラスで飼ったザリガニは、飢餓かストレスか両方か、自らの足を食らって死んだ。
毎日同じ道を歩いているのに、目に映るあらゆるものに気を惹かれて遊んだ。今も昔も地球は同じように回っているだろうに、どう考えてもあの頃のほうが毎日がめまぐるしかった。
生活科の授業で、学校近くの公園に行った。赤紫の花が咲くのを見つけて、それがツツジという名前だと初めて知った。観察ノートにスケッチをして、こう書き添えた。「花びらがつつのようになっているから、ツツジというのかなとおもいました」。ホントかどうだか知らないが、どうやら実際にそういう説もあるらしい。小学生の勘、侮れぬ。
別のツツジの咲く公園には、お気に入りの遊具があった。
友だちと向かい合って座る、シーソーみたいでブランコみたいな遊具だった。青い塗装は錆びてぼろぼろと剥げかかっていたけれど、そこでお喋りに興じるのが楽しかった。わたしが小学生だった間にいつのまにか、撤去されていた。事故があったと聞いたような気もするし、単に老朽化によるものだったのかもしれない。大きな球状の回るジャングルジムみたいな遊具もあったけれど、それも消えた。小さな公園には、もうブランコと滑り台とベンチしかなかった。
学校の近くの田んぼは、ピンクのスズランテープで囲まれていた。不恰好なカカシも立っていた。わたしが弟と隊列を組んで右手でテープに触りながら歩いていたら、田んぼの隣の家からおじさんが出てきて怒られた。人のものに勝手に触るなとか、手すりじゃないんだとか言われたのかもしれないけれど、覚えていない。ただそのあとに言われた、「弟に真似させるんじゃない」という叱責にびっくりした。いたたまれなさとか罪悪感とかじゃなくって、心底びっくりした。わたしだけが怒られているのだと。わたしと弟との間には、分別の境界があるらしいと。その日から、スズランテープとかトラロープとか待機列のチェーンとかを無邪気に触れなくなった。それで困ることもないから特段おじさんに恨みはないけれど。
おじさんの家の軒先にも、ツツジが咲いていたかもしれない。
ツツジが手繰り寄せた記憶の数々は、もしかしたらツツジとは関係のないエピソードだったかもしれない。あの花は、ツツジですらなかったかもしれない。だけどこうしてツツジの思い出として再構築されてわたしの記憶の引き出しに仕舞われていく。そしてこの季節が来るたび、きっと思い出すのだろう。蜜の香りと一緒に。
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