利他と贈与と衝動と
贈与、つまり自分の一部を他者に差し出すこと。それは利他といえるのだろうか。
少し前に『「利他」とは何か』の伊藤亜紗パート(1章)について書いた。
今日は続く2章の中島岳志パート。テーマは贈与だ。
大学時代に文化人類学の講義で贈与という概念を知ったけれど、眠気との戦いで残念ながら全然身にならなかった。だからその反省を胸に、今日は書く。
贈与のもつ残酷さ
中島はチェーホフの『かき』を引く。牡蠣をほしがる物乞いの子に「じゃあ食べろよ」と哀れんで牡蠣を与え、それを食べるさまをみんなで取り囲んで笑いものにするシーンだ。
このシーンから分かるのは、「贈与」のなかに、支配と絡まってくる問題が含まれているということです。インド独立の父・ガンディーはこの問題に非常に繊細で、どんな者に対しても、何千もの人が見ているなかで食物を与えてはならない、つまり、慈悲とは尊厳という問題と絶対にペアでなければ成立しないものである、と言っています。
(中略)
哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまうのです。
伊藤亜紗も共感という概念に対して、そこに潜む支配性を指摘していた。「あなたのために」の視点は、簡単にあなたとわたしの関係性を歪めてしまいうる。施す側に立つことで、相手を弱き者に位置づけて無力化させてしまう。自分が権力をもったかのように錯覚してしまう。そういう非対称な関係性に陥った途端、わたしの行為は利他ではなくなる。利他はとても絶妙で脆い。
交換システム
マルセル・モースの『贈与論』では、贈与が3つの義務によって成立するものだと論じられている。
ひとつめは、贈り物を人に与える義務です。ふたつめは、それを受け取る義務。そして三つめは、それに対してかえす義務です。この三つの義務によって、贈与はシステムとして機動しているとモースは言います。ただしこの三つの義務は、人間の意識的な自発性ではない、とも指摘しています。
パプア・ニューギニアの島々では、赤い貝の首飾りを時計回りに、白い貝の腕輪を反時計回りに受け渡すという「クラ交換」が脈々と続けられている。
ニュージーランドのマオリの間では物に「ハウ」と呼ばれる精霊が宿るとして、人に物をもらったら誰かに返礼をしたり、渡したりしなければならないと考えられている。
そして北アメリカには「ポトラッチ」という儀式的な贈与がみられる。婚礼や葬儀などの場で周囲の部族を招き、お返しのできないほどのびっくりするような財や富を渡すのだそうだ。物を贈与することによって敬意を得る。権力的な地位を得ようとする。
つまり贈与というのは文字通り見れば極めて利他的な〈give〉なのだけれど、実際のところそれなりの見返りを受け取る〈take〉を伴っているものなのではないか。贈与というと聞こえはいいが、相手に負債を押しつける行為であるとも取れるのではないか。
私たちは誰かからプレゼントをもらうと、「やったー! うれしい!」と感じるだけではなく、お返しをしなければならないという観念にかられる。相手から一方的にもらうばかりでこれがずっとたまってくると、両者のあいだに上下関係のようなものが生まれてくる。
(中略)
つまり、一方に負い目と従属が生まれ、もう一方には権力的支配が発生する。かえさなければいけないという義務感が、ある種のヒエラルキーの根拠になってしまう。
「ありがとう」と言われることへの違和感
自分がなしたことに対して「ありがとう」と言われると気持ちがいい。いいことしたな、喜んでもらえてうれしいな。結局それは自己満足なのだと思っているけれど、「ありがとう」はわたしを受け止めて満たしてくれる言葉だ。
しかし中島はここで、「返礼への違和感」について述べている。インド人が荷物を持ってくれたことに感激して何度もお礼を言ったら、相手を怒らせてしまったというエピソードだ。
「ありがとう」と言われることでこれが贈与ではなく交換になってしまう、という問題に触れたのだと思います。つまり、何かやったことに対する返礼としての言葉がかえってくると、その関係性が変わってしまう。
あまりにも当たり前のオートマティカルな行為として自然にやっていることは、報われるか報われないかという問題の外部で行われている行為であって、そこで「ありがとう」と言われると、やはり妙な感じがするのです。
これはおそらくわたしが先に「自己満足だ」と言ったこととつながることで、「ありがとう」と言ってもらって嬉しい行為は、あらかじめ「ありがとう」をもらえることを想定している行為なのだ。打算的に利己的に、わたしはあなたに感謝されて自分を満たすためにやっていることだから。
それが悪いって言うんじゃない。大いに結構。だけどそれは利他じゃない。じゃあ利他はどこに?
ヒントはここにある。
「ありがとう」と返されたらもやっと違和感を覚える行為。「ありがとう」をまったく期待していない、ふとした行為。「あまりにも当たり前の」「オートマティカルな」「自然とやっている」行為。そこには行為の結果に対する打算の入り込む隙がなくて、言い換えれば行為自体への意識が限りなく薄い。
それはふっと、からだの内側から湧きおこってくる衝動のようなもの。極めて中動態的なもの。
利他はどこからやってくるのかという問いに対して、利他は私たちのなかにあるものではない、利他を所有することはできない、常に不確かな未来によって規定されるものであるというのが、ここまでの議論を通じてお伝えしたかったことです。
ああ、めっちゃ伝わった!