しゃぼん玉とお日さま
気持ちのよい晴れた空の下、子どもとしゃぼん玉を飛ばした。
息の詰まる外出自粛生活のなか、外の空気に触れるささやかなひとときだった。
上着も羽織らずにふらっと庭に出て、いつのまにか季節がすっかり変わっていることに気づく。ゆっくり堪能する間もないまま桜は散ってしまったし、自転車に子どもを乗せて風を切ることもなくなった。人間たちが内にこもっているあいだにも、外の世界は急ぎ足で進んでいる。
勢いよく吹いたしゃぼん玉は、ドドドドッと直進したあと、ふわっと消えた。「シャボン玉」の歌詞みたいに屋根まではなかなか飛ばないものだ。
めまいがするほど全力で量産したり、ゆっくり吹いて大きいのをつくったり、飛ばしたしゃぼん玉を捕まえてもう一度吹き込んだり、あるいはただただ眺めたり。日当たりのいい地べたに腰を下ろして、ひたすらにこの遊びに集中する。それはのどかで、美しかった。
わたしが風向きや日当たりを気にして座る場所を変えるたびに、子どもが追いかけてくることとか。そうかと思えば少し離れたところへしゃぼん玉を飛ばしに通ったり。液をドボドボとうっかりこぼしたり。そんなやりとりも愉快で、自然と頬がゆるむ。
きっと、お日さまのせいだ。
借りぐらしの寮の部屋はとても日当たり良好で、越してきてから毎朝たいへん目覚めがいい。カーテンを少し引き開けただけで溢れ込んでくる強い光が、脳みその隙間という隙間に一瞬で入り込んでくるような、覚醒する感覚がある。
その太陽光を全身に浴びるのだ。からだ中が目を覚まして、めぐりはじめたにちがいない。
子どもたちと一緒に家のなかにこもり続ける生活は、丈夫な壁とガラスに阻まれて、お日さまを遠ざける。だんだんと心の余裕が小さくなっていくのを感じるし、曜日感覚が麻痺すると同時に、移ろいゆく季節からも取り残される。
いま、必要なのはお日さまだ。
換気のために窓は開けるけれど、そんな小さな隙間からでは全身に光を取り込めない。からだ中にじわじわと、お日さまを沁みわたらせたい。
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