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訛りについて標準語で書いた過去noteを完訳してみた #方言note

#方言note っていう面白そうなお題をタイムラインでみつけて、前にnoteでわたしの方言との葛藤みたいなことをまあ長々と書いたことを思い出したんよ。そうやん、なんであれ標準語で書いたんやろ、って。伊勢弁で書いたらよかったやん、って。

そうゆうわけで、訛り全開バージョンに書き下してみることにしたんやけど、これが結構難しかった。そもそもが喋り言葉で書いてないから、そのまま訳そうとすると訛らせポイントが見つからんくて、喋り言葉に変換しながら訛りを出すっていうやや高度な技術を求められた。
あと、ぱっと見訛ってなさそうやけど、ほんとはイントネーションが違うみたいなのを反映させられやんかったのはちょっぴし残念。

翻訳って難しい。
訛りにこだわるあまりちょっとやりすぎた気もするし、なんかもっと自然な表現がほかにあったような気もするし。
とはいえ、原文コピペして一文ずつ変換してくと、自分の訛り方の癖が浮き上がってきて面白かった。語尾の「やん」が11回、「たん」が10回、「とる」が5回。「たん」は今まで自覚なかったから、実はちょっと意外やった。

ていうか、長文で訛ったのはもしかして初めてかもしれやん。読み返したときの圧倒的違和感の正体はそれか。なるほどな。

オリジナルはこちら。

訛らん・訛りたい・訛る・訛れやん・訛ろ

訛るっていうのは、ある意味怖いことやった。

あんまり訛らん母と四六時中べったりやった未就園のころのわたしは、たどたどしいながらもキレイな日本語を話しとったらしい。そういう意味ではわたしの母語は標準語なんかな。

それが、幼稚園に入って一変したん。幼稚園っていうのは社会やんな。先生たちと、クラスメイトと。一対一の静的な二者関係が一変して、わたしをワンオブゼムにするごった煮のなかに放り込まれて。若き生命体は飛び交う言語をぐんぐん吸収して、それでついに父方の祖母に言われたんやった。

「あんたもすっかり、いっちょまえに伊勢弁やなあ」、って。

小学校に上がる前のわたしの体を、ビビビッと電流が貫くような衝撃やった。いっちょまえと認めてもらった喜びとかじゃなくって。なんか大切なものを失ってしまったような、焦燥と不安、それと恐怖やった。ような気がする。
少なくとも、そのときにわたしは一つの規範を内面化したんやろう。訛るのは品がないって。

だれもそんなふうには言わんかったはずやのに、6歳にして深読みグセがすでに発露しとったのか、あるいは自虐的なニュアンスを感じ取ったのか、母の期待を裏切ってしまったと思い込んだのか…なんかわからんけどそうなっとった。仲いい友だちと離れ離れで進学する不安が、わたしを掻き立てたのかもしれやん。

幼稚園は社会やったけど、小学校はよけい社会なんやんな。背筋伸ばして椅子に座って、まっすぐ前見て先生のお話をちゃんと聞いとった。初めての担任の先生に、姿勢がええねって褒められた記憶がある。ほんとは猫背やのに!
それでわたしは、訛りを封印した。
母が喋る言葉とか、テレビで聞く言葉を意識して使ったりして。訛るんは恥ずかしい。大学で上京してから実はイントネーションが標準語と違っとったことに気づいたりもしたんやけど、なにがともあれ当時自分が知りうる、限りなく訛りのない言葉を話した。

わたしはずっと、訛りを否定してきた。
伊勢弁の勢力範囲の届かん土地に引っ越したときにも、上京してからも、今も。封印してからの方が長いし、親元も離れて久しいから、それはもはや積極的な否定を通り過ぎて馴染んできとる。ひとり言でもほとんど訛らんし。

けどわたしは一回だけ、その封印を解いたことがある。
伊勢弁の勢力範囲に一時的に舞い戻った、高校時代の1年半。わたしは訛るわたしを受け入れた。まわりの訛り方を観察して、そこからおっきく外れやんように調整しながら、でもしっかり訛った。小学1年生から多少は成長した自分を感じるとともに、ありのまま訛ることの清々しさを知ったわ。わたしがわたしを受け入れると同時に、おんなじように訛る相手もわたしを受け入れてくれとることが心地よかった。訛り合うって、やさしい世界なんやな。

上京してからも、そのまま訛り通してもよかったんやけど。
しかし、悲しいかな。エセ標準語慣れしたわたしの脳みそは、ホンモノの標準語を話す人たちが目の前に出てきて訛りスイッチを完全に切り替えてしまったんやんな。訛り合いはできても、きれいな標準語に平然と訛り返せるほどの強靭なメンタルをわたしは持ち合わせてなかったってこと。訛れやんわたしに逆戻り。

訛り合う世界のやさしさを知っとるからこそ、訛りを封印するコミュニケーションに疎外感が募る。意思の疎通に支障はないけど、どっかもっと深いところでの繋がりきれなさを感じる。一回は突き返した「訛るわたし」のアイデンティティを、喋れば喋るほど遠ざけてしまっとるような。

伊藤亜沙さんの『どもる体』に、この感覚を重ねる。
どもる体ならぬ「なまる体」を抱きしめて、わたしは今日も生きてくんかなー。


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