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#42 「わたし」たち|思考の練習帖

今日は、パーツ論と解離の話。
前回、前々回の #思考の練習帖 に引き続き、信田さよ子・上間陽子の『言葉を失ったあとで』から。

上間陽子的パーツ論

解離というのは、過去のトラウマ的なできごとと関連するような状況になったときなどに、ぼーっとして意識が飛んでしまったり、その間の記憶がなかったり、体が動かせなくなったり、感覚がなくなったりということが一時的に生じる症状だ。

上間さんが調査のなかで出会う女の子たちにも、解離症状の見られる子がいる。そういうときの対応について、こんなふうに語っている。

…そこで悪夢がはじまって、幻聴が聞こえはじめたんです。自分のことを罵ってる声が聞こえると。それが怖くて怖くてしょうがないというので会いに行って、「いますごくしんどいから怖がらせて動かないようにさせてるかもしれないよ、その声はその子かもしれないね」って、私がパーツ論にもとづく話をしたら、ストンと落ちて。

信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』

パーツ論は、「わたし」がわたし自身のことをすべて決定してコントロールしているという近代的自己論とはおそらく対極にあるものだ。「わたし」とはたくさんのパーツの集合体で、だからいつでもすべてのパーツが同じ方向を向いて動くわけじゃない。上間さんの事例で言えば、幻聴を聴かせるその子の耳は(もしくは脳?)、その子の消耗する精神を守ろうとしてその子を怖がらせ、その場にとどまらせようとした。
そういうストーリーだ。

解離は、自分が自分でなくなるような怖さがあるんじゃないかと想像する。
だって、自分のコントロールの及ばないところで身体や意識が暴走するのだから。それこそ、「わたし」がバラバラになってしまうような感覚。
でも、「わたし」は意味もなくバラバラになるのではない。「わたし」を守るための働きなのだと考えると、少しだけ気持ちが楽になる。そう思えたら、「わたし」自身に対して無力なわたしをほんの少し受け入れられるかもしれない。

あるがままの自分を受け入れられるって、強い。
身体を持て余してバラバラになる怖さを抱えている子に、かけてあげられる言葉を知れた。

これも解離だった

解離の話でもう一つ。信田さんのこの言葉を読んで、わたしは膝を打った。

 解離がいつから出現するのか、いろいろありますからね。学齢期、小さいころに解離があって、それが一部になって嘘つきになっちゃう子もいるし、嘘つきって解離してるひとが辻褄合わせで発生することが多いんですよ。虚言癖って言われたものも解離じゃないかって思ったりします。
 ロス事件として80年代初頭に騒がれた事件の三浦和義についても、そんな感じがします。解離が起こっていても、解離という言葉もない時代には、とにかく状況に適応するためにその場限りのことを語りますから。それが次々と起きると辻褄合わせが重なり、本当と嘘の区別がわからなくなるのではないかと。

同上

ああそうか、と。
わたしの仕事場に、よく平然と嘘をつく子がいる。困ったものだなと思っていて、嘘をつかれるとわたしはとても悲しいよという話をその度にするのだけれど、相変わらず嘘をつく。嘘をつく状況などを鑑みてわたしなりの見立てはあったのだが、この信田さんの話で合点がいった。

もしその子の体験世界が頻繁に解離によって切れ切れになっているのだとしたら。
視覚情報を脳が処理するときに見えていない部分を自動で補正するみたいに、足りない断片を想像で補っているのだとしたら。
なにが事実でなにがフィクションかなんて、実はよくわかっていないのだとしたら。

「嘘をつく」というと近代的自己の能動的な行為のように捉えられるけれど、脳内の自動補正による中動態的な行為だと考えたら見え方も違ってくる。なるほど、解離って極めて中動態的だ。


今日はここまで。

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