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戦力外通告とわたし

戦力外通告について、Wikipediaでは次のように説明されている。

主にプロスポーツ競技において、所属選手に対して「戦力構想から外れていることを選手本人に通告」すること。

プロスポーツのことはわからないけれど、日常生活でもこれと似たようなことが起きていると思う。たとえば今のわたしはちょうどそんな気分だ。

「戦力構想」は、組織が最大の効率で最大の利益を得るための構想だ。その構想にうまくフィットできる人材だけが選ばれ、そうでない者たちはふるい落とされる。それが競争社会の原理であることに異論はない。
戦力外通告は、だから競争に勝てなかった弱者たちが受け取るものである。時としてそれははっきりと目に見える形をしていないかもしれないが、その場に居合わせた者すべてが重苦しく哀れな雰囲気を感じるものである。その空気感そのものこそが、戦力外通告の本質であるのかもしれない。

ところで、組織が効率と利益を最大化できる構想を推し進め、不要な戦力を容赦なく削ぎ落としていった先に残るものはなんだろうか。それはたしかに一つの成功であると言ってもよいだろう。しかし、多くの犠牲の上にある成功である。

わたしたちの社会は今、これを成功だと言い切ってしまう価値観から脱却し、次の時代へとシフトしていく過渡期にある。と、わたしは信じている。

これまで競争に勝てなかった弱者たちに、光が当てられる。ここは競争に勝つ者だけの社会ではない。競争に負けた者も、はなから競争に参加していない者も、同じ空気を吸って生きている。すべての生に価値があり、すべての生に意味がある。

組織が戦力に何を求めるか、も変容していくだろう。最大の効率と最大の利益だけを追い求めているときには取り零してきた多くの価値に気づいて、構想を練り直すだろう。その先にあるのは、既存の成功とは質の異なるゆたかさである。

今わたしが勝手に戦力外通告をされたような気分で落ち込んでいるのは、わたしのなかに既存の成功にしがみつきたい欲求があるからだ。わたしが利益と効率を最大化するような戦力としてカウントされることへの執着があるからだ。そこから落ちこぼれることへの恐怖と劣等感があるからだ。そしてそれらは、わたし自身がこれまでに(そして今も)敗者に向けてきたまなざしなのである。
すべての生に価値があり意味があると頭では理解していながら、わたしは勝てない生を軽んじていたのである。

でも、わたしが今いるのは負けた側だ。この負けを、自分に烙印を押して惨めさに浸るだけの負けにはしない。既存の戦力構想から少し距離を取って、わたしがわたしなりに戦力になるやり方を考えてみたい。わたしの価値と意味を証明してみたい。

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