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断片的なメモ|ウィニコット理論入門

図書館で借りた、M.デービス・D.ウォールブリッジ著『情緒発達の境界と空間−ウィニコット理論入門−』。2週間借りて、さらに2回延長をかけて、今日やっと最後のページをめくった。

ウィニコットの理論を理解したくて、市内中の図書館の蔵書からタイトルに「ウィニコット」と掲げる本をかき集めた。先月読んだ『ウィニコットと移行対象の発達心理学』はとても読みやすくて理解が進んだ。

でも今回のこの本は、難解すぎた。「入門」って書いてあるけど、それ本気で言ってる?
淡々と読み続けることがどうにもできなくて、しょうがないので後半はほぼ飛ばし読み。だからこの本から何を学んだのかを端的に表現することすらままならない。悔しいので、断片的なメモを残しておこう。

「抱っこ」というこの環境的供給が、超早期幼児期における情緒発達にとっていかに重要なものであるか

幼児つまり患者が真に自発的な行動をしたり自己に対して自己をさらすことができたり、また安全であると感じることができるのは幼児つまり彼らが抱っこされている時だけであると、ウィニコットは信じていた(pp.26-27)

ベビーという存在は、大人に体をまるごと抱えられて生きている。抱っこされ、あやされ、ミルクを与えられ、おしめを替えられ、自分では何にもできないのに生きていられる。
でも少しずつ、何かができるようになっていく。自分の手足を認識して、自分とは異なる他者の存在に気がついて、目の前の得体の知れない何かに手を伸ばしてそれを確かめてみたくなる。

やってみたい。
その感覚が湧き起こってくるのは、今が退屈だからだ。ぼんやりしているだけでお腹は満たされるし、眠気や排泄物の不快感はすぐさま取り除かれるから。安全は退屈だ。退屈だから、やってみようと思うのだ。退屈の外の世界へ一歩、踏み出してみてもいいかなと思えるのだ。
心も体も大人に抱えられている安心感があるからこそ、手を伸ばしてみたいと思える。ここにないものを知りたいと思える。もっと大きなものを願い、期待したいと思える。

物理的にも情緒的にも、抱っこは偉大だ。

思いやりをもつ能力の発達

子どもが社会化し、成熟していく過程の始まりは、思いやりをもつことのできる能力の達成だとウィニコットはいう。思いやりをもつ能力の発達のために必要な条件が以下だ。

1 自我の統合。内側と外側をもち、自己のなかの不安に耐えることのできる全体としての人にならなければならない。「私は責任を果たすことができる」という前に、「私はである」ということが現われてこなければならない。この段階で、自我は「母親の補助的自我から自立」し始めているのである。
2 「私はあなたのことを愛する、だから私はあなたを食べる」というような愛と破壊の二つの要素が存在するような対象関係。この場合、対象と関係をもつことで怒りや憎しみを表現するために、さらに知性化された攻撃を用いることも見られる。怒りと憎しみは、適応を減じることによって、徐々に現実を導入することに伴う欲求不満に対する反応である。
3 全体的な人として見られる母親(対象)は破壊に耐えて生き残り、使用され(愛され、憎まれ、攻撃され、修復され)、そして信頼できる存在である。(p.88)

ベビーのうちは、心も体も大人(母親である場合が多いけれど、それに限らない)に抱えられていればよかった。はたから見れば圧倒的な弱者だけれど、本人にしてみればきっと抱えられているなんて自覚もなく、自分でお腹を満たし、世界を支配しているぐらいの認識だろう。

でも、次第にそうではないことに気がついていく。ミルクを供給し、おしめを替えているのは自分ではない独立した存在であること。移動するには自分で自分の手足を動かさなければいけないこと。自分の要求がいつでも最優先に叶えられるわけではないこと。
自分でできることが増えるほどに、思い通りにならない現実をつきつけられる。

その混乱が怒りとして憎しみとして破壊行動に転じる。加減も何もわからないから、我に返ったときには世界を破壊してしまったのではないかと怖くなる。そんなときに、目の前にちゃんといる。あれだけの怒りと憎しみをぶつけたあともなお、そこに生き残ってくれている。それが大きな安心になり、信頼になるのだ。そして、そういう存在が自分にあるという実感が、きっと心にゆとりをもたせる。他者への想像力をはたらかせるゆとりになるんだろう。

母親の愛はかなり生々しいものである

「あなた方のだれもが、私は赤ん坊がとても好きであると、努めて言うようなたぐいの人を知っているだろう。しかしあなた方はそのような人たちが赤ん坊を本当に愛していると思いますか。母親の愛はかなり生々しいものである。愛のなかには所有欲、欲望、この餓鬼というような要素まで存在しているのである。愛のなかには謙虚さと同様に寛大さ、力も存在している。しかし、感情は全く愛の外に位置し、母親たちと対峙しているものである」とウィニコットは記述している。

ウィニコットによると、感情は憎しみを抑圧することから生じる性質のものである−−。つまり自分のなかの憎むべきどんな点も許すことのできない個人から生じる性質のものである。(p.155)

愛は神聖で純粋できれいなものではない。ドロドロとした、どこまでも利己的で、そして一方的なものなのかもしれない。それで傷つけあってしまうこともあるのに、だけどそれを向けあうことがわたしたちには必要なのだ。

一方で「感情は全く愛の外に位置し」、「憎しみを抑圧することから生じる」は正直よくわからない。感情の出発点は憎しみで、愛はそこに含まれないというのはどういうことなのか?

おまけ:『ウィニコットと移行対象の発達心理学』のまとめ

最後に、冒頭で紹介した井原成男の『ウィニコットと移行対象の発達心理学』のまとめを貼っておく。文字が小さすぎてたぶん読めないけど…

『ウィニコットと移行対象の発達心理学』井原成男


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