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“手作り”に込めた意味とは?

私が作る木の製品は、木工旋盤という材料を回転させる機械と、回転している材料を削る刃物を使って製作されます。刃物の動きはプログラミングされ自動化されたものではなく、私の手によって動いているので、手作りとも言えるわけです。

だから、作られたものは“均一”なものではないんです。同時に均一に作ろうとも思っていない。

「いやいや、そんなこと言って均一に“作れない”だけでしょ?」

確かに一流の職人ならば高い精度によって同じものを作れて当たり前かもしれません。でも、同じものを作るのが得意なのは自動化された機械生産です。ならば人の手で作ることの意味は?その1つには“均一に作らない”こと、があるんじゃないだろうか?
そんなことを考えていました。

でも、同時に「手で作っていて本当に良いのか?」という葛藤もありました。これからの世の中、高度な機械がどんどん出てきて、自動化し、沢山綺麗に作ることが重要で、手で作るなんて今の時代非効率以外のなにものでもないんじゃないか?

手で作ることにこだわっているとか、そこにどんな理由があろうと負け犬の遠吠えじゃないか?

そんな悩みもずっとありました。

でも、“均一に作らない”という考えに私なりの意味を見つけ、誰になんと言われても手で作っていても良いかなーと思うようになったんです。

それは…

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木の花のkikkaシリーズを作っている時に感じたことです。ホオという材料を使って、葉っぱを作っている時、その色味があまりに違いすぎて、同じものを作るなんてそもそも無理だ!と思ったんです。確かに形は同じものを作れるかもしれない。でも色味が違えば、それはすでに同じものではない。木は木目も違うし、木目の視覚効果で、見え方も変わるなら、同じ形が違う形に見えてしまうかもしれない。ならば、そもそも同じように作る意味すらないんじゃないか?そう思った時、あることを思い出しました。

スウェーデンにカールマルムステンという家具デザイナーがいました。彼は自然を愛し「人や自然界に直線がないなら、人に寄り添う家具からも直線を排除する」という考えを持っていたようなのです。つまり“自然という世界に合わせたルールで、ものを作る”という考え方だと私は感じました。

これを私に照らし合わせた時、自然の花や葉っぱには色や形に同じものはない、ならばkikkaシリーズの木の花も同じものがなくていいんじゃないか?と考えたのです。
“均一に作らない”ということと、“自然には同じものがなく、全てが違う”ということは繋がっている。本物の花に同じものがないなら、木の花でも同じものがなくていい。それは自然を表現することにもつながっているんじゃないだろうか?

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1つの花としての型は決めるけれど、その型の中に現れるブレのような違いが一つ一つを別物にしてくれる。それは歪(いびつ)であったり、不揃いなものであったりするかもしれない。でもそれは自然の世界の成り立ちに近づくことでもあり、「手作りとは“もの”に自然の揺らぎを内包する」ということなんだ!

そんなことを考えたのです。

ある意味ではとんでもなく飛躍し、理解しがたい考え方かもしれません。ただの屁理屈だ!単なるこじつけだ!と言われてしまうことかもしれません。でもそこに“私”は手作りに肯定的な意味を見出すことが出来たのです。
だから、私は積極的に丁寧に作らない。ブレやズレや不揃いが入り込む余地があるようなものづくりをしたい。それは未熟者、技術のない者、言い訳と一蹴されてしまうことなのかもしれない。でも、“私が納得出来ること”を世の中の人がどう感じ、どう受け止めてもらえるのか?そこからはじめることが大切かなとも思います。ここにその想いを書き、沢山は作ることが出来ない手作りによるものづくりを出来る限り続けていきたいと思います。そして、そうした考えに共感して頂ける方がいれば、私が作るものを手にとってもらえたら、とてもとても嬉しいのです。

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