好きな人の嫌いなところは好きにならなきゃいけないのか?
私の思春期の頃の考え方として、相手のことを好きになって付き合い始めると、今まで見えていなかったことも見えてきて、「嫌だなー」と思うところが見つかったりしても「いや、嫌いなところも好きにならなきゃ!だって彼女のことが好きなんだから!」みたいな脅迫観念みたいなものがあったことを記憶しています。
そんな時タイトルのような質問が浮かんでくるのです。
「好きな人の嫌いなところは好きにならなきゃいけないのか?」
ですが、早速質問の答えを言ってしまうと“好きにならなくていい”と思うのです。好きな人の嫌いなところは嫌いのままでいい。好きな人の嫌いなところも“包含”して好きになること。それが大事なことだったなーと大人になって思います。
その考え方の支えになる部分は、私にとって“両義性”という考え方とつながっているのです。
両義性とは「一つの事柄が相反する二つの意味を持つこと」という辞書的な意味を持つようですが、私が最初にこの言葉を知ったのは大学生の時で、哲学者のメルロポンティの現象学について知った時です。
私には正確で細かい話が出来ませんが、私が腑に落ちた部分だけを説明すると、
「“モノ”の存在は、モノだけで存在することは出来ず、モノとモノとの間に生じる“現象”によってのみ存在出来る」みたいなこと。
これは美大生で絵画について考えていた私にとってはとてもわかりやすい話でした。
絵画とは常に“見る側(鑑賞者)”と“見られる側(絵画)”によって成り立っていて、絵画だけでも、鑑賞者だけでもその存在はあり得ない、ということ。
どういうことかというと、、、
私が好きな絵に円山応挙の氷図屏風というものがあります。そこには線だけで描かれた氷の割れ目があるわけですが、はっきり言ってただの線なのです。でも鑑賞者が見ることによって、ただの線は氷の割れ目に見えてくる。西洋絵画では、単なるキャンバスという布の上に塗られた絵の具でしかないものが、人に見えたり風景に見えたりするわけです。鑑賞者が見出してしまうその図像や意味を超えて、存在する絵画はありえるか?みたいなことが絵画の自立性として語られることもあったと思います。
こんな風に、描かれた絵とそれを見る鑑賞者の想像力という二つの存在によって、“絵画の体験”という“現象”が生まれるというわけです。絵画が“在る”だけではダメで、鑑賞者が“見る”だけでもダメだということ。
しかし、
これだけではどう最初の質問の答えにつながるのかハテナ?が浮かびそうですし、もう一つ別の話をしてみます。
私は大学生の頃何か考えがまとまらない時に散歩をよくしていたのですが、近くの川まで行って、河原でぼーっとしている時がありました。そこには他に誰も人はいなくて、私だけがその河原にいる状態。そんな時、近くの木からガサガサっという音がしてとても驚いたのです。どうも鳥や他に人がいたとかではなく、木から枝が落ちたのかな?という感じで、その後も何か音がするわけではなくとても静かでした。
その時思ったのです。
「今木から枝が落ちた音を聞いたのは私だけで、私がいなければ木から枝が落ちたということに誰も気づかなかっただろう。同時に私がいなかったとしても、枝はもちろん落ちただろう」と。
つまり、“世界”は私がいなくても存在しているし、同時に私がいるから“世界”は存在しているんだ、ということを本当の意味で実感することになったのです。
ここには唯物論や唯識論のどちらか一方ではなく、その両方が同時に存在しているんだ!という気づきがあったのですが、“二つの矛盾するような事柄が一つのことに内包されることがある”ということが私にとって大きな気づきだったわけです。
また、もう一つ宮崎駿の風の谷のナウシカの漫画からも気づいたことがありました。
それは、“清濁合わせ持つものが人間である”ということ。漫画の中にもこのようなセリフがあるのですが、ナウシカはお父さんがトルメキアの兵士に殺された時に、我を忘れて相手の兵士を怒りに任せて殺してしまいます。でも、とてもとても心の優しいお姫様なわけです。このエピソードは、人に優しくありたいと思う自分とどうしようもなく攻撃的になる自分とがいて、一体どちらが“本当の”自分なんだろう?と考えていた私にとって、一つの救いになりました。“本当の自分がどちらか?”ではなく、“どちらも含めてあなたなのだ”ということだったのです。
これが両義性についての話で、冒頭の質問の答えである“好きな人の嫌いなところは嫌いなままでいい。好きな人の嫌いなところも含めてあなたであって、そのあなたが好きなのだ”という気持ちでいたいということなのです。
何故なら、その人がその人なのは「やり直したい!」と思うようなつらい過去があったとしても、その過去も含めて経験しているからこそ今のあなたになっているわけで、嫌なところも悪いところも、そうした部分があるからこそ存在するのがあなたの良いところだと思うのです。