アートとクラフト(内容と技術)
あるアート作品に対してこんな評価があります。
「これはクラフトであってアートではない」
これはアート作品に対してある種“批判的”に言われるものですが、この言葉にはどこか「クラフトよりもアートの方が素晴らしい!」というニュアンスがあって、私には疑問でした。
なので、アートとクラフトについて少し考えておきたいと思い書いてみることにします。
アートとクラフトを考えてみる時、私にとっては大学時代に学んだ、バレエダンスのクラシックとコンテンポラリーという分野の違いがとても重要でした。そこでは“技術”と“内容”について語られていて、それがアートとクラフトについて考えるポイントになると思うのです。
バレエダンスでは、
クラシックとコンテンポラリーが分かれていて、クラシックバレエは、あるストーリーの中で動き一つ一つに意味があり、その動きをいかに優雅に、丁寧に行うかが重要であるという話でした。つまり、決まった型をいかに“美しく”できるか?ということであり、“動きの再現性”または“理想的な動きの追求”を“ある型の中”で求めていくこと。
これが技術である、と学んだのです。
一方コンテンポラリーでは、
クラシックのような型がある世界ではない。
つまり型がない世界。
例えば、自分の中に湧き上がる感情や気持ちを、ある動きに“託す”ことによって、新しい動きを作り出す。そうして生まれた動きは、クラシックの動きが持つ“意味”から離れ、新しい意味が与えられた新しい動きとなる。
例えば、Aさんが喜びの感情を込めて作った新しい動きを仮に、「動き1」だとしたら、
その「動き1」には喜びという内容が新しくつけられたというわけです。
コンテンポラリーとは技術とは関係がなく、“新しい内容が生まれる”ことであり、そこにはまだ“技術という要素が存在していない”ということである。つまり、内容を重視したものであるというのです。そして、バレエの歴史は技術と内容が繰り返しながら進んでいる!みたいな授業の話だったのです。(そのように私が解釈したということなので、バレエの分野として正しいかどうかは一旦置いておきます。)
私はこの“技術と内容”の話が、アートとクラフトの話に繋がるように思えたのですが、もう少しコンテンポラリーで生まれた「動き1」を見てみます。
「動き1」は、喜びを表現しているが、「Aさんが生み出した、動き1は素晴らしい!!」という評価を受けて、真似る人達が出てきました。そうなると、今度は動き1が型となり、その動き1を以下に美しく出来るか?ということになる。そうなると、新たなクラシックの誕生です。コンテンポラリーは時代とともにクラシックになり、喜びを表情した「動き1」は、新たな型となり、新たな技術として高められていく。
つまり、
ある内容が生まれそれが型となり、その型を如何に再現できるかという技術になり、また新たな内容が生まれ新たな型が生まれる。
内容→技術→内容→技術・・・・
ニワトリとタマゴの関係のようにどちらが先なのかは分かりません。クラシックですら最初に生まれた時は技術とは無関係で、全く新しい内容だったでしょう。
さてここで、アートとクラフトに戻ってみます。
クラフトは技術の分野で、アートが内容の分野であるというのが結論なのですが、それについて書いておこうと思います。
クラフトというのは、必ず「既存のもの」になります。つまり、世の中において理解され、知られた存在。
例えば私は木を用いてスプーンやお皿を作っていますが、スプーンやお皿の概念を外れるようなものは作っていません。すでに存在している概念の中でものづくりをしているわけです。つまり、“如何にスプーンやお皿を作るか?”ということを考えています。それは、新しい作り方を考えたり、新しい素材を用いたり、“作り方”のアプローチを試行錯誤しているわけですから、“技術”と言って差し支えないと思います。もちろんその中で、今までにないスプーンや新しいスプーンはあるでしょう。
一方でアートというのは「既存ではないもの」です。アートは“個”が社会に対して疑問を投げかけるもので、新しい“内容”の問いかけです。例えば、スプーンはこの世界に存在する概念だけど、スプーンの概念を改めて問い直し、「食」という領域から離れ別の領域でスプーンを捉えることによって、スプーンの意味や機能を拡張または解体するようなものを作る。つまり新たなスプーンの“内容”を問いなおすというイメージです。そうして生まれてきたものは、おそらくスプーンではあるけどスプーンではないものであり、今までに無い“内容”のものになっていると思うのです。(その内容が評価されるかどうか?という話はまた別ですが)
それが、アートとクラフトの違いかなと思います。
では、最初の言葉を思い出してみます。
「これはクラフトであってアートではない」
アート作品に対して、ある種批判的に言われる言葉ですが、私にとってこの言葉は、
「アートのように新しい世界を私に見せてはくれないが、作られたものはクラフトとして魅力的だ」と捉えるのはどうだろうか?と考えてしまうのです。
内容→技術→内容→技術 というサイクルがあるだけで、どちらが先に存在するものであるかわからないと言いましたが、同じように、優劣もないと思うのです。つまり、ある“流れ”の中にその作品が生まれてくるのであって、アートがクラフトよりも優れているということではないと思うのです。
アートやクラフトという領域を分けることは、物事を認識する上では大切だと思いますが、領域を分けることで、「アートが優れている!」とか「クラフトが優れている!」なんてどちらの方が優位か?みたいな話は必要ないと思うのですが、どうでしょう。