見出し画像

第6章第6節 吉丸一昌と《木がくれの歌》


忘れ得ぬエピソード

室崎琴月にとって東京音楽学校時代のエピソードといえば、教授の吉丸一昌(1873-1916)から《木がくれの歌》の作曲を褒められたことである。「先生の事は一生忘れる事が出来ません」と琴月は書き残している。それは人生の進路を決めるような出会いだった。全文をそのまま引用しよう。

或時、先生は私を教授室に呼んで「木がくれの歌」というのを示されて、これはある教授に曲を付けて貰ったのだがどうも曲の程度が高くて本領に合わないから、君が一つこれに作曲してみないかとの仰せでありました。勿論私は喜んで引き受けまして途中に出てくる「蛙が鳴くからかーえろ」の箇所を特に念入りに拵えて先生に聞いて頂いたところ、お世辞でもありましたでしょうが大変おほめ下さって「君! 作曲を続けて勉強したら少しはものになろう」とお笑いになりました。
この思いがけない激励の辞により、私の創作意欲は一層あおられたわけであります。

「わが作曲の思い出」『この道一筋』p94
昭和34年3月25日NHK「話の手帖」で放送 琴月68歳

作曲といえば、私の作曲に対する自信は吉丸一昌先生(早春賦の作詞者)によって開眼されたといってもいい。吉丸先生は東京音楽学校の生徒監で、私は先生に認められる前も多くの作曲を手がけていたが、先生に「うまい」と言われたのが、演奏だけでなく作曲を志す直接の原因になった。

「私の体験」『この道一筋』p99
昭和37年、琴月71歳の時の回想

2つの文章はいずれも40年以上前を回想したものである。詳細な日時は記されていないが、入学1年目から3年目、大正2年春~大正4年夏の間にあった出来事と推測される。

大正2年時点で41歳の吉丸は、生徒指導の責任者である生徒監で、修身と国語の授業を受け持っていた。授業以外では、文部省唱歌教科書の編纂委員会で歌詞主任という立場にあり、また一方で敬文館から自著『幼年唱歌』『新作唱歌』を出版する仕事にも取り組んでいた。吉丸の精力的な仕事については後述する。

最初の作曲は船橋栄吉

《木がくれの歌》は、室崎琴月にとって童謡《夕日》を手がける以前の初期の代表曲といえる作品である。この歌は当初、船橋栄吉作曲で『新作唱歌』第5集(大正2年7月22日発行、敬文館)に発表された。第5集は《雲雀》《光》《木がくれの歌》《鳥》《故郷を離るゝ歌》《僧院の庭》の全8曲がいずれも伴奏譜付きで掲載され、目次には前の3曲が中等学校程度、《鳥》が小学校程度、後の2曲は合唱曲と注釈がある。歌詞の末尾には「大正2年4月13日正午脱稿」とある。

《木がくれの歌》
青葉若葉の木の下道を、影は見えねど節おもしろく、
話交りに聲うちあげて、三人ばかりの、聞け、謡が行く。
『蛙が鳴くから かーへろッ』
風は騒ぎて實に雨蛙 かなた此方に鳴く聲聞え、
心寂しく日も暮れ行けば、一人一人の、聞け、謡が行く。
『蛙が鳴くから かーへろッ』
(大正二、四、十三、正午脱稿)        

『新作唱歌』第5集(大正2年7月22日、敬文館発行)

青葉若葉の繁みに隠れてよく姿は見えないが、子供たちがわらべ唄を口ずさみながら歩いていく。節回しが面白い。話をしながら大きな声を上げて、3人ばかりが歩いていく。「カエルが鳴くからかーえろ」
風がざわざわと吹いている。あちこちでアマガエルの鳴き声が聞こえるのは雨が近いからか。日が暮れてきてなんだか寂しい気持ちになるが、子供たち1人ひとりがわらべ唄を歌いながら歩いていく。「カエルが鳴くからかーえろ」

3行2連の詩にはすべての漢字にルビが打たれている。木の下道を「このしたみち」、三人ばかりのを「みたりばかりの」、實にを「げに」と読ませるあたりは古めかしい。吉丸は中等学生程度としたが、現代の中学生には難解かもしれない。「木がくれ」という言葉は読んで字の如く、木々の枝葉が重なり隠れることをいうが、こんにち日常会話であまり用いられていない。

「歌」と「謡」を使い分けている点に注意が必要である。題名の「歌」は唱歌であり、作品中の「謡」はわらべ唄である。当時はいわゆる童謡運動が始まる前なので、わらべ唄=童謡だった。吉丸は曲想を練っているときに、わらべ唄を耳にしたのではないか。どこか高い場所からその光景を見下ろしていたのかもしれない。子供の姿は見えないけれど、その節回しがとても新鮮に聞こえた。そこで風とカエルも組み入れて一つの叙景詩にまとめたのである。

「聞け、謡が行く」という部分をどう解釈するか。「聞け」は命令形であるけれど、文部省唱歌《海》の「見よ昼の海」と同様に、「聞いてみなさいよ」ぐらいの呼びかけの調子であろう。

音節数が七七、七七、七七、七七、七七と連なる点は、音韻学の研究者らしいこだわりを感じさせる。最後の1行つまりわらべ唄そのものにあたる部分が八三で変則になっている。《木がくれの歌》は、西洋曲にわらべ歌を取り込んで作った実験作である可能性が高い。

余談になるが、この《木がくれの歌》には別の題名が考えられていたふしがある。雑誌『音楽界』6巻9号(大正2年9月)には、敬文館の1ページ広告が掲載されていて、『うかれ達磨』と『新作唱歌』がPRされている。そこに『新作唱歌』第5集の目次があり、《木がくれの歌》ではなく《木陰のうた聲》という題名になっている。他の5曲は実際の題名と同じである。編集者が単に間違えたものか、それとも最後の最後まで題名の推敲が行われていたものか、謎めいている。

船橋栄吉とは誰か

《木がくれの歌》の最初の作曲者、船橋栄吉(本名正二郎、1889-1932)は大正2年の時点で23歳、琴月より2歳年上である。兵庫県出身で東京音楽学校予科に明治39年入学、本科声楽部で学び明治43年に卒業した。卒業演奏会で独唱を披露したエリート中のエリートである。同じ声楽部の2級上に山田耕作がいる。

船橋は研究科で声楽・ピアノを計4年間修め、そのまま学校に残って明治45年-大正2年に授業補助(唱歌)、大正3年から分教場勤務、大正6年助教授、昭和4年に教授という道を歩んでいる。作曲も手がけたが、バリトン歌手として名を高めた。最晩年は『新訂尋常小学唱歌』編纂の作曲部委員をつとめ、船橋自身の代表曲ともいえる《牧場の朝》が採択されている。《牧場の朝》の伴奏譜は特に評価が高い。

琴月の回想にある「教授」は、当時「授業補助」か「教務嘱託」であった船橋栄吉とみてよかろう。

船橋が書いた曲譜は、4分の2拍子変ホ長調、テンポは78である。最初はAndante(アンダンテ)で軽やかに始まり、「聞ケ!ウタガ行ク」を繰り返す。わらべ唄部分はpoco rit(ポコ リタルダンド)で次第に遅くなり、最後はpp(ピアニッシモ)で「カヘロッ」を繰り返して消え入るように終わる。

吉丸の作品は、学内の奏楽堂で開かれる音楽会でよく演奏された。《早春賦》や《故郷を離るゝ歌》は学友会主催の土曜演奏会で歌われている。しかし《木がくれの歌》が演奏された記録は今のところ見つかっていない。学外には演奏記録が残っている。大正4年4月18日に女子音楽学校で開かれた音楽普及会第1回演奏会で船橋自身が独唱した。[1]

程度が高すぎた船橋作品

吉丸にしてみると、船橋の曲は程度が高すぎて詩趣に合わない。それで琴月に曲をつけてみるようすすめたらしい。しかし、それならなぜ『新作唱歌』第5集に収録してしまったのか。船橋が作った当初はそうでもなかったが、後になってやはり合わないと気になりだしたということだろうか。

明治末期から大正期前半の東京音楽学校は、《花》「春のうららの隅田川…」の作詞で知られる美文家の武島羽衣が教授を辞したあと、吉丸が学内トップの作詞家となっていた。学生たちのために歌をつくる一方、文部省唱歌教科書の編纂委員会で歌詞主任とつとめ、全国から依頼があった校歌なども作詞している。大正2年に報知新聞が行った明治天皇奉頌歌の公募では、選者となっている。より良い曲を求めて、吉丸はしばしば1つの歌詞を複数の作曲家に競作させた。

例えば大正元年11月2日に書いた《早春賦》である。[2]《早春賦》は現在、中田章の作曲が知られているが、最初は船橋栄吉が作曲した。同年12月14日に開かれた第3回土曜演奏会では、船橋作曲の《早春賦》を声楽部の安藤文子が独唱している。その後、学友会誌『音楽』4巻1号(大正2年1月)にやはり船橋作曲の曲譜《早春賦》が掲載された。そして大正2年2月5日発行の『新作唱歌』第3集には、中田章作曲の《早春賦》が掲載されている。中田章は船橋の先輩で3歳年長、この年に講師補助から助教授に昇格している。

こうした吉丸の采配は、作曲者たちの競争心をかきたたせたことであろう。船橋の名誉のために言うが、吉丸は船橋の実力を低く見ていたわけでない。『新作唱歌』では、第3集《水の心》第5集《木がくれの歌》第6集《餅売》とあわせて計3曲を採用している。

複数の曲がある吉丸作詞唱歌
《早春賦》 船橋栄吉・中田章
《木がくれの歌》 船橋栄吉・室崎琴月
《春の窓》 大和田愛羅・梁田貞
《夏の曙》 室崎琴月・山本壽
《望郷の歌》 岡本新一・成田為三
《水の皺》 大和田愛羅・梁田貞・山田耕作
《かくれんぼ》 工藤富次郎・山田耕作
[3]

それでは、吉丸が褒めた室崎琴月作曲の《木がくれの歌》はどんな歌なのであろうか。

楽譜は室崎清太郎『新唱歌』(大正4年7月、家庭音楽会)に掲載されている。この『新唱歌』は室崎琴月の初期の音楽活動を推測するうえで極めて重要な資料であり、詳細は後述する。

琴月作曲の《木がくれの歌》は1ページに五線譜と数字譜と歌詞が書かれている。伴奏譜はない。ニ長調4分の2拍子。テンポは120と印刷されているが、鉛筆書きで85と訂正されている。室崎家に伝わる冊子なので本人が書き入れた可能性が高い。120では速すぎたらしい。近年の琴月を顕彰する演奏会では、独唱で45くらいのゆっくりしたテンポで歌われている。

全体に軽快な調子で、最後の2小節「蛙が鳴くから かーへろッ」の部分に「童謡風ニ」という注釈がついている。この部分は本来のわらべ唄だと抑揚が小さいが、琴月は「かー」にアクセントをつけている。これが「特に念入りに拵えて」という意味なのであろう。「蛙が鳴くから かーへろッ」はリフレインで、2度目の「かーへろッ」は全体を締めくくるように終わっている。

現代の作曲家に依頼して、2つの《木がくれの歌》の楽譜を比べ実際に弾き比べてもらった。作曲家は船橋作と琴月作では全く違う曲だと言う。

船橋作は技巧的で芸術性がある。大人が歌う抒情歌であり鑑賞したくなる歌だという。山田耕作の《からたちの花》を連想させる。最後のわらべ唄部分は、バリトン歌手として得意な低い音で終わらせているのではないかという。一方の琴月作は、誰でも歌えることを意識したシンプルな曲である。同じ音の繰り返しが多く、話し言葉に近い曲であるという。

琴月が「童謡風ニ」と付けた注釈は、吉丸の意に沿うように書いたに違いない。大正7年の童謡運動が始まる以前、「童謡」は「わらべ唄」という意味で使われていた。吉丸は、尋常小学唱歌が広まれば全国各地の俗謡童謡が廃れてしまうと危惧し、日本人の感情にあう洋楽文化を築くために参考になる伝統的な俗謡童謡を何とか収集しなければならないと説いていた。[4]《木がくれの歌》はその考えを具体的にした作品ともいえる。

曲譜集には自選せず

《木がくれの歌》は、室崎琴月の演奏会ではよく歌われた。しかし残念ながら人々の記憶に残る名曲とはならなかった。

《木がくれの歌》を収録した戦前の曲集は、3冊が確認されたのみである。琴月自身の曲譜集『新唱歌』(大正4年7月)と、佐々木すぐる編『改訂唱歌科教材集』(昭和元年12月)、小学唱歌教授同好会編『最新小学唱歌名曲全集』改訂増補(昭和5年)である。不思議なのは、本居長世編『世界音楽全集』17日本唱歌集(昭和5年)に収録されていないことだ。前述したように琴月は本居の求めに応じて10曲の唱歌を提供した。その中には、吉丸作詞の《夏の曙》[5]はあるが《木がくれの歌》はない。《木がくれの歌》を自ら選ばなかったことになる。昭和初期に編まれた童謡唱歌集といえば、『世界音楽全集』のほかに、田村虎蔵・福井直秋・小松耕輔編『童謡唱歌名曲全集』全8巻(京文社)が有名だが、《木がくれの歌》は収録されなかった。

吉丸と琴月の関係は、師弟とまでいえるものでない。金田一春彦がおそらく琴月本人から直接聞いた話として、吉丸は「怖い先生だった」という。吉丸は武道をたしなむ生徒監であったから、18歳もはなれた琴月からみて当然の印象であろう。

吉丸作詞の歌で琴月の作曲は、《木がくれの歌》と《夏の曙》の2曲にとどまる。『富山県校歌全集余滴』(1979年)に出てくる室崎琴月の略歴によると「貫名美奈彦とショルツに師事」とある。典拠は記されていないが、著者の小澤達三氏が琴月本人から取材したのだろう。琴月がいったい誰から演奏や作曲の手ほどきを受けたのか、それが具体的に分かる資料は今のところ見つかっていない。

[1]『音楽界』大正4年5月号、小松耕輔『音楽の花ひらく頃』p102。音楽普及会は大正4年3月、小松耕輔・東儀哲三郎・大和田愛羅の3人が発起人となって設立された。文字通り西洋音楽の普及を目的にした組織で、大正8年まで国内と満州合わせて計30回の演奏会が開かれた。

[2]『望郷の歌吉丸一昌』p64。

[3]《水の皺》は作曲懸賞で梁田が1位、大和田が次点だった。『音楽』1巻1号、1巻2号(明治43年)。

[4]吉丸一昌「歌劇問題の帰趨」『時事新報』大正2年、『音楽界』大正2年5月号に転載。

[5]《夏の曙》
一、暁告ぐる 烏の聲
  夢路を啼いて 夢醒めたり
  向ひの山は いまだ小暗く
  白きはひとり 道の草露
二、水汲む音の 遠きを聞き
  道行く聲の 近きを聞き
  佇む袖の さても涼しさ
  夏こそなけれ夏の曙

山本壽は岩手出身で明治45年3月甲種師範科卒。大正2年廣島高等師範学校附属小学校訓導。のちに同校助教授。

(2014.05.11)※表紙は日比谷公園音楽堂

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?