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日曜美術館「吉田博」を見た

2016年7月10日に放送された日曜美術館に関する感想をまとめました。一連の吉田博に関する記事の最初期のものです。放送内容については、Web上により具体的な記事がいくつか見つかりますので参考になさってください。吉田博がブレークするきっかけになったテレビ番組といっていいでしょう。


(1)『劔山の朝』と実映像 比較があれば

NHKの日曜美術館で「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」が放送された。ようやくである。2016年春にカラバッジョ展・若冲展・黒田清輝展に対抗するかのように、千葉市美術館で「生誕140年 吉田博展」が開かれたときは音沙汰なしで心配していた。そりゃそうだ。1年半前に千葉市美術館で同じ木版画の川瀬巴水を取り上げたばかりという印象が強い。

日曜美術館で取り上げるのを断念したのかとあきらめかけていたのだが、郡山市美術館の巡回展に合わせて、なんとか放送にこぎつけたようだ。さすがは日曜美術館である、すこし安堵した。

吉田博の画業を木版画を中心に取り上げた番組内容はまずまずだった。褒めるのは容易なので、むしろ気になった点をいくつか書いていこう。

専門家ゲストは吉田博研究の第一人者である安永幸一氏。すこし緊張気味で発言にキレがなかった。この人はVTRで発言してもらった方が良かったのではないか。米国の専門家をVTRで登場させたので、美術館の現場に安永氏を招くという算段だったのだろうが、安永氏の持ち味が十分に引き出されていなかった。

中江有里氏がゲストとしてそつないコメントをしていた。でも、きっかけを問われて「伝記を読んで…」というあたりがちょっと弱い。吉田博についてもっと深く好きになっていれば違う表現でコメントができたはずだ。才能がある人なので物足りなかった。

ダイアナ妃と『光る海』『猿澤池』(1985年)没後70年展展示

番組冒頭、ダイアナ妃の執務室に木版《光る海》が飾られていたというエピソードは、川瀬巴水のスティーブ・ジョブズのそれとよく似ていた。《光る海》に対する伊東アナ・井浦氏のコメントがごくふつうなので拍子抜けした。1年半前に巴水の版画をみて、あれだけ目を養っていたはずなのに、もうすこし気の利いたコメントはできなかったものか。

「光る海」と並んで「劔山の朝」を代表作として取り上げていた。無難な選択だ。その分、出演者のコメントがありきたりになった感が強い。

《劔山の朝》木版 1926年 日本アルプス十二題

実際の裏剱の映像が出てきた。明治大正当時は「劍山」という名称もよく使われたのだが、現代の山岳写真家にとっては裏から見た剱岳「裏剱」のほうがなじみ深い。番組中、2場面「裏剱」が出てくるのだが、これが版画に描かれた場所とやや角度が違っていたのが惜しまれる。番組制作者は現場撮影に行っていないのか。あるいはそういう映像のストックを探しても見つからなかったのか。吉田博のこだわりを見習ってほしかった。この実際の風景は、取材映像でなくてもいい、ほかのだれかの写真でもいいから、こだわって『剱山の朝』と見比べたいところだった。

それにしても吉田博の構図は完璧である。三ノ窓雪渓(氷河)がちょうど剱沢へ斜めに落ち込でいくように描かれている。黒部別山のなだらかな山容と相まって、このバランスが絶妙なのである。

「劔山の朝」はたしかに代表作だ。しかし、「日本アルプス十二題」は、渓谷や雪渓のほか植物や人物まで描いて、シリーズを完成させたことがすばらしいのだ。興味がある人は他の11題をみられるがよい。(2016-07-10)

(2)見ごたえあった摺りの再現

NHKの日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の後半の見せどころは、富士拾景《朝日》(1926年)という作品の再現である。吉田博の技の解明に挑むという。

吉田博自身が彫ったという本物の版木を前にして、職歴40年近くという摺り師が緊張していると話す。正直な人だ。そりゃそうだ、絵の鬼と言われた吉田博が横にいたらどうだったろうか。厳しい指示が飛んでいただろう。NHKの番組だからこそできた再現は、ねずみ版の説明がやや簡潔にすぎたきらいがあるが、それなりに見ごたえはあった。

再現され完成した『朝日』が画面に登場する。その時間がやたらに短かった。本物と比べる演出はない。吉田博の残した指示書に沿って摺ったのだろうけれど、録画を見返してみるとその違いは隠せない。摺り師にとっては、テレビカメラの前での作業がなかなか辛いことだったのではないか。

《溪流》木版 54.5×82.8  下は部分

再現はもう一枚《溪流》(1928年)でも行われた。これも本物とは開きがあって比べることが憚られる。摺り師の名誉のために言っておくが、伝統工芸の世界で、明治の名品を再現しようとするとたびたびこういう場面はある。つまるところ、吉田博の版画はやはり博本人がいなくては摺れないのではないか、という思いを強くした。

吉田博が生み出した木版画の特徴は、とらえどころのない水や雲の表現にある。その細かさは執念すら感じさせる。《溪流》はそれが特に如実な作品だ。水流というと、ほかに日本アルプス十二題の《黒部川》や《中房川奔流》がある。3点は飛沫の輪郭線に違いがあり、このあたりが面白いところなのだが、番組ではノータッチだった。《溪流》でも、ねずみ版をやや急いで説明していた。

《中房川奔流》1926 24.8×37.7

番組終盤は、《農家》という最後の版画を持って来て、オチを付けていた。テレビ番組の制作者というのは、習性としてオチを付けたい、ドラマを描きたいものだ。吉田博の画業はそれだけで十分にドラマチックなのだから、あえて《農家》を最後の作品だと持って来て演出する必要があったのだろうか。

《農家》1946年 24.5×37.3 木版画としては最後の作品とされる

最後の作品といえば、版画以外にほかにあるはずだ。版画にこだわるなら、やはり日本アルプス十二題をはじめとする41点を一気につくった、あの驚異の1年間の画業にもっと時間を費やしてほしかった。(2016-07-11)

[追記]図録によれば、油彩《初秋》が1947年作で最後の日展出品作。1949年9月の《伊豆の山》が最後の作品とされる。1949年4月5日永眠、73歳。

(3)油彩水彩と木版画の構図比較を

吉田博の人生はまるで大河ドラマである。片道切符の渡米からして、ぐいぐい惹きつけられてしまう。NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」は、そのあたりを短いVTRに上手にまとめていた。

ただ一つ気になることがあった。番組では、吉田博は渡欧して観光地化された風景に物足りなくなった、という。そこで油彩『パリ風景』(1906年)という一見なんでもない町の風景画を映し出す。とりあえずはここまではいいとしよう。この後の展開がまずい。

帰国した吉田博は、「自然と人間の間に立ってそれをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である」という思いで、高山に登って自然を描くようになった、という。ところが日本の画壇は、黒田清輝たちの新派の淡い明るい人物画が主流になっていたので、重厚感のある風景画は注目されなくなり、吉田博は孤立し苦境に陥った、という。そんなとき渡辺庄三郎と出会い、木版画の道を目指すことになる。これがテレビ番組が描いてみせたストーリーである。

とても分かりやすい展開だけれども、単純化しすぎではないか。

旧派と新派の対立はそもそも以前からあった。重厚な油彩画として大正4年の『穂高山』(第9回文展)を映したあと、対比させた黒田清輝の『湖畔』は15年以上も前の明治30年の作品だ。時系列にムリが生じている。

吉田博が明治40年に帰国したあと、第1回文展に出品したのは水彩画3点である。入賞作『新月』はどうみても淡い色合いだ。博は重厚感のある風景画を目指したわけではない。毎年のように高山に登って山岳画を書き続けたけれども、油彩ばかりでなく、水彩もあれば、新聞雑誌用に線画もかいた。

今回の番組で何より足りなかったのは近代登山ブームという視点である。吉田博が明治42年の立山を皮切りに本格的に高山で描き始めたのは、スイスのヨーロッパアルプスで描いた経験と、欧州よりやや遅れて始まった国内登山探検ブームが関係している。パリの観光地化された風景がイヤになったからでない。

明治42年5月16日に東京で開かれた山岳会第2回大会に、吉田博はスイスアルプスなどを描いた水彩画18点を出品している。うち14点はおそらく明治39年夏の欧州旅行で描いたものだろう。それらが近代登山ブームで日本国内でも注目を集めた。

吉田博「日本アルプス十二題」一覧(1926年、木版)

多様な山岳画を手掛けたことが、のちに「米国の部」「欧州の部」「日本アルプス十二題」「富士拾景」「日本南アルプス集」などの多彩な山岳風景版画につながっていくのだ。重厚な山岳画で行き詰って木版画に走ったというのはすこし見方が違うのではないか。

油彩画水彩画と木版画で構図の比較をしてもらいたかった。『千古の雪』(明治42年第3回文展)、『溪流』(明治43年第4回文展)はまちがいなく「日本アルプス十二題」につながっている。

今回の日曜美術館は、山好きの吉田博ファンには消化不良だったろう。今回の巡回展にはアウトドア用品メーカーが後ろにいる。番組タイトルを「未踏の頂へ」と洒落てみせたのなら、もっと丁寧に山岳関係取材をしてほしかった。

また一方で、版画ファンにとっては、川瀬巴水と比べてどうなの、という素朴な疑問に寄り添う視点がほしかった。それは、伊東アナか井浦氏がそうつぶやけばいいだけなのに、惜しいことをした。(2016-07-12)

(4)なぜ木版画に挑み始めたか

吉田博はなぜ木版画に挑み始めたのか。簡単そうで意外に難しい問いである。

NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」では、重厚な洋画が注目されなくなり、渡辺庄三郎との出会いをきっかけとして木版画への道に入ったと流すように説明していた。

吉田博研究の第一人者、安永幸一氏は『山と水の画家 吉田博』(2009年)で、大正12年末から大正14年8月にかけての渡米渡欧についてかなり詳しく書いている。

しかし、その最大の要因は、この滞米中に知った、渡辺木版画店が既に出版販売していて、博が必ずしも評価していなかったと思われる川瀬巴水や伊東深水などの木版画がよく売れていたことや、幕末の、極めて程度の低い浮世絵あたりまでもが高値で取引されていたりして、日本人として恥ずかしいと感じたことである。その結果、新しい時代に即した新しい日本の木版画を作らねばならない、と痛切に思うようになった。

(安永幸一『山と水の画家 吉田博』p138、2009年)

安永氏の記述はまだまだ続くが、渡辺木版画店との関係に重きを置いているようだ。

あまり知られてはいないが、もう一つの見方がある。『山書研究』13号(1969年12月)に内堀有氏が書いた論稿「忘れられた山の画家・吉田博」。これも結構くわしい。

大正十二年から十四年にかけ、関東大震災羅災画家救済の目的で夫人とともに渡米、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、セントルイスと各地で展覧会を開いた。その後、三度目のヨーロッパアルプスにおもむく。この時の作品にはマッターホルン、ブライトホルンを始めとして、ダン・ド・ミディを背景とした木版画の小品『シロンの古城』などがある。

サン・モリッツでは、ついに一度も生れ故郷を離れることなくアルプスの風物を描いた故セガンチニーの池の辺の画室を訪れている。

この旅で会った米国の画家バーレット、英国のブラングィンやキースが日本の木版画に学んで独自に木版画を制作し、盛んに展覧会を開いているのを見て、伝統ある日本の木版画を現代に再興したいと考えた。吉田博が木版画家として広く知られるようになった動機はこの旅にあった。

「このままでは日本の版画は衰微してしまう。自分は帰国したら国家のため、この芸術を大いに復活させなければならない。」

夫人によれば、彼はこのように語って、使命に燃えて帰国するや一気呵成に制作に着手したとのことである。

(内堀有「忘れられた山の画家・吉田博」『山書研究』7号、p105-106、1969年)

ちょっと長くなったが貴重なので引用した。安永氏と内堀氏の見方は相反しあっているわけではない。おそらくどちらも正しいにちがいない。安永氏がいう「新しい時代の新しい日本の木版画を作る」ことと、内堀氏がいう「衰微する日本の木版画を再興させる」というのはほぼ同じとみてよい。

ただ、安永氏がその前に掲げた他の版画家への嫉妬心よりも、内堀氏が読み解く外国人から受けた刺激の方が、説明としては納得しやすい。このあたりをNHK日曜美術館が番組で掘り下げるには45分間では短すぎたであろう。(2016-07-13)

吉田博 木版画の道を選んだ理由

(5)観光気分で行けない『劔山の朝』の現場

吉田博版画の代表作「劔山の朝」の現場に行ってみたい。そう思った人もいるだろう。しかし少なくとも観光気分で行ける場所ではない。本格的な山旅を覚悟しないとその場には立てないのである。

NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の放送に合わせて、Webページ「出かけよう、日美旅」(日美旅ブログ)に第14回「日本アルプスへ 吉田博旅」が公開された。放送で踏み込めなかった部分を、Webで補おうという企画で、その趣旨には好感をもった。

山岳イラストレーター成瀬洋平氏の話をもとにして北アルプスへの旅を紹介している。成瀬氏は2年ほど前に吉田博の「日本アルプス十二題」の現場を訪ねてエッセイを書いた人だ。

そのエッセイをまだ手に入れることが叶わず、残念ながらまだ読んでいないので詳しい論評を差し控えるけれども、日美旅ブログに掲載された成瀬氏からの聞き書きはいがいと呑気で、危険な感じがした。

編集者の山への理解がやや不足しているのではないか。特に剱岳の扱いである。

3キロほどの近距離から撮影した剱岳の写真がどーんとある。そこに「劔山の朝」と「頭の中で重ねてみてください」と書いてある。

これはミスリードになりかねない。「劔山の朝」は後立山連峰の鹿島槍(南峰2889.2m)~布引山(2683m)付近から剱岳を眺めたものだ。黒部峡谷を挟んで直線距離で11キロ以上、徒歩だと丸1日かかるような途轍もない遠隔地なのである。よく晴れた夏の未明にその場所に立つのはあまりに難しい。「劔山の朝」の場所を紹介するならやはりそういう注意書きが必要だったのだ。

成瀬氏は山岳雑誌のライターである。インターネット上で成瀬氏の『未完成 描きかけの山のスケッチ』(2014年)の目次と文章の一部を立ち読みさせてもらったが、着眼点がすばらしい。「日本アルプス十二題」の現場を訪ねて、吉田博の思いを汲み取るという仕事は、そのままテレビ番組になってもおかしくない。NHKには、日曜美術館とは別番組で、一般受けする版画の超絶技法よりも、山岳美への深い追究心を描き出してほしかった。

吉田博「日本アルプス十二題」一覧(1926年、木版)

ちょっと横道にそれるが『大天井岳から』の解説で、「右隅に集落のようなものが描かれている」「山登りする人からすればなせここを選んだのだろう……と不思議に思ってしまう作品」と書かれている。

右隅ではなく、画面中央やや右、である。この構図は傑作だ。これをなぜ駄作のように見るのか、理解に苦しむ。ちょうど中央の視界が開けて、扇状地と犀川の屈曲部が見えた。これほど遠近感のある絶景はなかなか見られない。小林喜作との関係ではという推測も愉しくていいかもしれないが、もっと素直に吉田博が提示した風景美を味わってほしい。

《千古の雪》1909年 THE PRISTINE SNOW 油彩 第3回文展二等賞

吉田博が魂を込めた「日本アルプス十二題」を「なーんだ大したことないじゃないか」なんていう見方をしていると、あの白黒写真では何の変哲もないようにみえる『千古の雪』(明治42年第3回文展)がなぜ二等賞という高い評価を得たのか、いつまでたっても説明できないのではないか。『千古の雪』は版画『立山別山』にリメイクされたのである。(このシリーズ終わり)(2016-07-14)


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