【資料】卜部南水「お伽噺 飛団子」1909年

お伽噺 飛団子
             南水

(上)

東岩瀬の町から水橋に出る道に、こんもりとした大木の松原があります。これは今でこそきれいな格好のよい浜の松原となってますけど、昔は、昼でも通るのが恐ろしいような気持ちのする松原でありました。ところが日の暮れになるとこの松原に妖怪(ばけもの)が出ると言う評判が、それからそれへ伝わりまして、日が入ると誰もここを通行するものがありません。

ある日のこと、水橋の方から、十七八の花のような娘と、五十格好の父爺さんと、屈強な下男と三人で岩瀬の町に来かかったのですが、松原の中で娘が腹痛を起こして、介抱に手間取りましたため、この怖ろしい松原の中で日が暮れたのです。時はちょうど秋の半ばでありまして虫の音を聴きながら夜道を踏むにはまことに気持ちのよい時節ですが、怖いと思うと虫の音も耳に入らず、ただ神様や、仏様の御助けを力に頼んで、はようこの松原を通り抜けようと、気を焦りました。

ところが、もう五丁ほどで森を離れるという場所で、大変な嵐が起こります。大雨が降つて来ます。砂煙が三人の顔に吹き当てて来ます。それはそれは三人とも、息も止まるような切ない苦しみを見ているのです。すると向こうの松陰から仁王のような眼の光る黒いものが出て、いきなり花のようなきれいな娘さんの島田髷をつかんでプーッと消えてしまったのです。かわいそうに父親は、たった一粒種の跡取り娘を妖怪に奪われたので、そののち苦しみ死んでしまいました。

(中)

富山から汽車に乗って、東岩瀬の停車場に降り、大村の海水浴にゆく田んぼ道をたどって七八丁歩み、村の入り口近くになると、東北の方に小高い森々と木の茂った一つの丘陵があって、その中に家の瓦が見えたり隠れたりします。この家に天文の頃、越中の五大将と呼ばれた轡田豊後守という将軍が立てこもっていたのですが、この大将はよほど強い人で、越後の上杉謙信の大軍をいつもなやました豪傑であります。

ところが、ある夜お城のなかのうわさ話に、岩瀬街道の松原で、かわいそうに三人連れの娘が妖怪にとり殺されたという話を、大将の豊後守が聞かれたのです。大将は非常に怒りました。おのれ妖怪、我が領土にあって町民百姓どもをなやますとは、不届千万である、おれが射止めてやる、撃ち殺してやると、すぐに弓矢をとって城をお出でになったのです。すると家来のものどもはまた引き止め、あなたお一人でもしや怪我でもありましては大変でござります、どうぞ妖怪退治にお出でになりますなら私ども召し連れてくださるようと、恐る恐る懇願しました。大将は、何にこれしきの妖怪退治に軍勢もいるものかと思われて一時は「さがれ」と叱りつけましたが、また家来どもの忠義を思いやられまして、しからば遠巻きになっておれに付いて来い、しかし、おれが妖怪を見届けて声をかけるまでは必ずそばに寄ってはならぬぞ言いつけて、一目散に大将は、岩瀬街道の松原にと進まれました。

(下)

時は八月、待宵の晩でありましたが、豊後守が松原に入りますと、娘が奪われたときのように大変な大風、大雨が来て、磯に打ち寄せる波の音も高くなって、真っ黒な非常にものすごい夜になったのです。あたりまえの人ならこの時化で腰を抜かすのですが、さすが大将だけに少しも慌てず、しきりに妖怪の出るのを待ってましたが、街道の右側の草むらの中に何か怒りほえる声がすると思うと、案の定、妖怪が草をけちらして飛び出し、まっしぐらに豊後守の前にやって来て、いきなりかみ殺そうとします。豊後守はびくともせず、「おのれちくしょうめ」と、身をかわし足をつかみ力に任せて地の上へ押さえ付け、妖怪の上に馬乗りになつて、腰の太刀を抜きはなち、首尾よく妖怪の気息の根を止めました。

そこで「オイオイ」と、大音声あげて、豊後守は家来を御呼びになりました。すると最前より物陰で様子はどうであろうと気をもんでいた家来どもは、我先きにとやって来て、大将のおそば近くかけて参りました。見ますると大将も、妖怪も真っ赤な血に染まって倒れています。これは大変と家来の者どもはあたりの小川で水をくんで大将の顔に吹きかけ、ようよう大将を生き返らし大将の体に一点の傷のないのを喜びましたが、さてこれほどの御疲労で我々どもを大声にお呼び立てになりますは不思議でござりますと申し上げたら、大将は夢の覚めたやうに、おれは妖怪を仕留めて気が緩んで綿のように体の疲れたとき、声を出そうも出ないのであったが、不思議に団子のようなものが飛んで来て口に入ってから腹に力ができてなんじらを呼んだことを夢うつつに覚えていると言われ、主従もろとも無事を喜んでお城に帰り、晴れ渡る待宵の月をほめて妖怪退治の凱旋の酒盛りをいたしました。

それから豊後守は、毎年妖怪退治の日になると、団子をこさえて、家来の者どもと茶話会を開き、その折の話をして記念としたそうです。東岩瀬の飛び団子はこの話が因縁になって出来たものです。昔々岩瀬街道をゆく人はみんな厄除けのためこの飛び団子を食うてゆきました。

  ◇

【編注】 卜部南水は本名卜部幾太郎。慶応3年(1867年)9月12日生、1938年11月23日没。愛媛県出身。『台湾民報』『福音新報』の編集を経て明治42年から『北陸タイムス』編集長、41歳。100号記念紙(3月15日付)に「南水」の署名で「百日」という記事がある。お伽噺「飛団子」は、北陸タイムス社の社屋新築を記念した同年9月5日の特別紙面に掲載されたもの。南水によるお伽噺はほかには見つかっていない。明治42年5月、巌谷小波と久留島武彦が来県したことで富山県内はお伽噺がブームになっており、その状況を踏まえて南水が書いた作品とみられる。飛び団子は既に伝説として語られていたものを子ども向けに書き直したものであろう。本記事は現代語表記に改めた。

卜部南水にういては、『トヤマ』76号(大正元年12月1日発行)に次のように書かれている。

活動的人物として新聞記者と称ふよりは新聞経営者に近い卜部南水クンは確かに北陸タイムスの今日を致した男である。其後名古屋の演芸新聞を一手に引受け例の頓才を利かせてが、現今は其の道によって浪界の偉人桃中軒雲入道の秘書官となってる。東京芝附近伊原郡の一村荘に在る君の前途は更に如何なる方面に向かって発動するかは蓋し人事推して計るべからずだ。

第7章第5節 新年に飛躍を誓う|kotoyo_sakiyama (note.com)
第7章第8節 お伽船参加と上京決断

(2021-08-17 21:36:31 2024-02-24追記)

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