(11) 終わりに


石崎光瑤カシミールの山旅をほぼ書き終えた。今後細かな点は修正していきたい。最後に、調べ足りなかった点を書きとめるとともに、今後、光瑤を研究する方々に提言を記しておく。

調べ足りなかった点

(1)シシュナーグを目指した理由と経緯?

なぜシシュナーグを目指したか。最も重要な問いにまだ答えが見つかっていない。光瑤は旅の前からシシュナーグを知っていたのだろうか。

アンバラナート(Ambaranarth;アマルナート)という地名を記してはいるが、関連して「ヒンドゥ教」「巡礼」という言葉は書き残していない。

本稿では、この山を選んだ理由をアッサドミルという登山ガイドの提案ではないかと推測した。

もう一つの可能性は、大谷探検隊で知られる大谷光瑞(1876-1948)や山本晃紹のかかわりである。大谷光瑞は、光瑤(1884-1947)より8歳年長。3次探検でカシミールを訪れた。その概要は『本派本願寺法主大谷光瑞伯印度探検』(1913年)にまとめられているが、マハデヴやシシュナーグは出てこない。。

この王国の美しさに最も多く親しまれたのは大谷光瑞師であろう。そしてちょうどこの時、徒弟の山本光紹氏が、ラルマンディにクリンシナパアパンと号する楼船をつないで、梵語の研究に従っておられた。隣り合った船の二〇八号には、日本の工科大学に留学したルイスというラホール生まれの男がいて、珍らしく日本語が聞けたりした。

石崎光瑤「印度山国の想出」『朝日新聞』1918年8月7日

この記述から、スリナガル滞在中に山本光紹の世話になったのは間違いない。登山についても助言があったということはないか。山本光紹は、正しくは仏教学者で印度関係の翻訳書がある山本晃紹(1898-1976)か。同一人物であるなら当時19歳である。

(2)地図と地名と標高

どんな地図や資料を見て、光瑤は地名や標高を書き記したか。「ゾアルダール」や「ペスホウ峰」など未解明の地名がある。

(3)撤退は早まった?

シシュナーグ行では、1か月の食料を準備していたのだから、5月6日夜に出発して6月初旬に戻ったとしてもおかしくないが、実際には5月27日ごろにスリナガルに戻っている。少し余裕の残して戻ったのはなぜか。

(4)アッサドミルとは何者か

アッサドミルという人物について資料はないか。どの地域の出身者か。ヒンドゥ教徒かシーク教徒か。シシュナーグと関連があるか。

(5)読売新聞人物評の正誤は?

読売新聞には、大正10年と11年に興味深い光瑤の人物評が残っている。いずれも、うわさと皮肉まじりのやや品格に欠ける記事だが、一面で光瑤の性格を言い当てている部分もあろう。大正11年の記事では、カシミール旅行で経費面の苦労話が記されているが、どこまで正しいのか。アジャンタ石窟のスケッチを掲載した新聞紙面は未見である。支援を受けた「ある新聞」とはどこか。高岡新報か。以下に引用しておこう。

カシミール旅行を企て、ヒマラヤの裾を回って、カンチェヂャンガで旅装を調えるにあたって、どうしても多数の人夫を集めなければならないのに、乏しい嚢中ではどうにもならない。そこで、ある新聞にアジャンタのスケッチと通信を送って、いくらかを得、さていよいよ探険出発となったが、何分にも、ばかげておびただしい荷物があるので、ポーターのチベット人の苦力十三人を、驚くなかれ、日当金十三銭ずつで召しかかえ、ラクダにまたがって堂々乗り込んだまではよかったが、一日行ってはふところ勘定に、赤くなったり青くなったりで、とうとうカシミールの半ばで、ヒマラヤの裾までに使い果たしてしまったという悲喜劇を演じた。しかし、日本人でこんなお大名様のような旅をした者は、おそらく君がはじめてだったろう。

「山岳画家中の先輩 植物通の石崎光瑤君」『読売新聞』1922年(大正11年)10月11日朝刊7面 

(6)『印度窟院精華』は限定200部の根拠は?

『印度窟院精華』(便利堂コロタイプ印刷所・1919年2月15日発行)は雑誌『芸術』に広告が出ていて30円とある。「私家限定200部で出版」と言われているのとはやや矛盾がある。出版の経緯をさらに調査する必要がある。購入されて各地の図書館で所蔵されたものもあるのではないか。『美術画報』42巻7号(1919年5月)によれば、窟院精華記念会が大正8年3月17日の夜、京都四條萬養軒で開かれたという。便利堂がコロタイプ印刷を始めたのは明治38年、コロタイプと写真集に対する光瑤の認識も興味あるテーマである。

写真の読み解きの重要性

本稿を書くにあたって『印度行記』のカシミール部分のみを徹底的に読み込んだ。美文調とか格調が高いとか評価はあるが、一方で編集時のケアレスミスなど問題点がいくつも見つかる。それは元になった新聞連載と比較することで明らかになった。

『印度行記』の地名や植物名などをどれだけ特定しても旅の実際は見えにくいままだ。やはり、本文に付属する52枚もの写真を丁寧に読み解く必要がある。

富山県[立山博物館]の2000年復刻版が重要な白黒写真を見逃したのは残念なことだが、手彩色の色硝子板作品に目を奪われる心情はわからないではない。彩色はたしかに画面に生気を与えるが、実は危ない面もある。たとえば光瑤の服装にしても同じ服なのに色が違っているようにも見える。一方で、白黒写真の芸術性を理解し、取り扱いに慣れていれば、『印度行記』95枚の扱いも違ったのではないか。惜しまれる。

写真の読み解きは、文章のそれと同じくらい深くて難しいということを今回あらためて感じさせられた。

写真のデジタル化を急げ

光瑤が撮影した写真は約1800枚あるという。親族から寄贈されてからたぶん30年ほどたつ。整理されているという話は伝わってこない。

デジタル化を急ぐべきである。1日100枚スキャンならわずか18日である。技術の進歩で市販のスキャナーでもそん色はない。経費を節約してやる方法はいくらでもある。

色補正や階調補正は後回しでよい。タグ付けも後回しでよい。いつどこで撮影されたかという詳細な分析は後回しでいいのだ。最低限の情報を付して最低限の整理だけで、できるだけ早く公開すべきだ。それによって大勢の研究者の眼に触れ、光瑤研究はさらに進んでいくことだろう。これは、光瑤の絵画作品などすべてに言えることであるが、特に素描や写真は記録性という大きな特徴があり、カシミールなど海外の研究者にとってもデジタル化は待たれているであろう。

明治大正の写真は、構図の優劣に関係なく一定の価値があり、所有者が取捨選択のフィルターをかけないで全写真データを見られるようにしたほうがいい。

https://pahar.in/ というWebサイトをみるとよい。本稿で紹介したアメリカの植物学者ラルフ・ランドルズ・スチュワート(1980-1993)のアルバムなどは、1ページをそのままスキャンして公開している。

日本の博物館・美術館の資料のデジタル化は概して遅れている。文化行政に責任を感じる担当者たちは「著作権」が頭をよぎり、結局、及び腰になる。70年の保護期間が過ぎればそれは全人類の共有財産になるということであり、今度はどう活用できるのかと考え直してもらいたい。

地図の更新は重要

生誕140年記念展の図録は、これまでの光瑤展図録とは違い、価値ある資料集となった。

しかし登山史関係に限ると、はなはだ物足りない内容となった。インドの地図を20年前に作られた図録から転載した点が象徴的だ。地図は、位置情報だけでなくと歴史を示すことができる表現方法である。この20年のデジタル化とオープン化よってめざましい進歩を遂げている。これによって登山ルートの可視化も容易になった。

20年間いやこの50年間、光瑤の絵画研究は進んだけれども、登山史研究は置き去りにされてきた。『山岳』や『印度窟院精華』の紀行文を丁寧に読み解けば、偉人のように仰ぎ見て作品を讃美するばかりでなく、等身大の魅力的な人柄にもっと迫れるのではないか。今後さらなる調査が進むことを願う。

以上、第三者の視点で率直に低減させてもらった。(終)

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