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(2) 山名は一筋繩ではいかない

「マハデュム」と「シシャナーグ」に向けて、107年前の石崎光瑤はどのルートをたどったのか。

『印度行記』に入る前に、山名と標高の問題を考えておこう。

結論から言うなら、「マハデブ」「シェシュナグ」とするのが現代の一般的な日本語表記である、と提案したい。言語学の専門分野からの意見を聞いてみたい。提案をしておきながらも、以下では旧表記をそのまま混ぜて使うことにする。

そして2つの山の標高については現時点(2024年9月)では保留とする。そのくらい外国の山の標高の問題は難しい。

「マハデュム」は比較的簡単にその場所をインターネットで突き止められる。

「Mahadev」と「kashmir」か「srinagar」を組み合わせてグーグル検索すると、「Mahadev Peak」が見つかる。マハデブ・ピークまたはマハデフ・ピークと日本語表記がある。

ここでは「マハデブ」でも「マハデヴ」でもいい。あるいは地名辞典によくある「マハーデブ」「マハ-デヴ」でもよしとしよう。

さらに英語で「Mahadev Peak」を検索すると「3,966 meters (13,011 feet)」とある。

光瑤の表記は4種類?

光瑤自身の表記は揺らいでいる。

ある時は「マハデオ峰(一三一〇〇呎)」またある時は「マハデュー峰」「マハデュ峰」と書きながら、最終版とも言える『印度行記』(1919年)では「マハデュム峰」と書いた(らしい)。ただ『印度行記』ではなぜか標高を記していない。登頂した山の標高を書き漏らしたとは信じがたいが、単純ミスによる欠落かもしれない。[1]

古い地図(たとえばSrinagar Sheet 43 J, 25万3440分の1 1922年)だと「Mahadeo」という表記もみられるので「デオ」でも「デュー」でも誤りとは言えないであろう。国会デジタルコレクションの検索で、「Mahadeo」は戦前の地理書などで「Mahadeo Hills」(マハデオ丘陵)が散見されるが、これは同じインドでも違う地域(中部のマディヤプラデーシュ)にある。

なおカシミールの「Mahadeo」が仮に13100フィートなら3993mである。

ウィキペディアでは、「Mahadev Peak」はザバルワンZabarwan山脈の山とある。ザバルワン山脈は、ヒマラヤ山脈の一支脈なので「マハデュム」はヒマラヤであると言ってよい。

他地図ではコー・エ・ジャバー

ところがここからである。グーグルマップでは「マハデブ」でよいのだが、他の地図ではそうでないものがある。同じ場所が「Koh-e-Jabbar」(コー・エ・ジャバーまたはコー・エ・ジャバール)と表示される。

たとえば
https://opentopomap.org/#map=13/34.16040/74.97276
を検索してみるといい。

ややこしいのは標高が3971mとあることだ。マハデブの最高地点が3966mだと思ったら実は3971mということなのか。地図を作画するときの基になるデータが違うのであろう。[2]

実は、マハデブというのはシバ神のことで、要するに「神の山」つまり「霊山」という一般用語であるらしい。

「マハデュム峰」の初出

では戦後のいつから日本語で「マハデュ峰」と言われるようになったか。

たぶん橋本広『ヒラマヤをめざした越中人たち』(1976年)が初出であろう。[3]

橋本氏は、山岳県富山では最も山岳に詳しい人として知られる。自らヒラマヤも経験し、『富山県山名録』など山の著書も多い。1974年の新聞連載をまとめた本で、参考文献は書いてない。「deo」を「デュム」と読めるのかどうか、やや疑問は残る。

大御所の書く物に疑問符をつけるのか。叱られそうにもなるが、実は、橋本氏自身も迷ったようである。というのは、2001年に発行された増補改訂版『富山ヒマラヤ百年の記録』では、「マハデューム峰」と改めているのだ。2001年以降の石崎光瑤の展覧会ではほとんどが「マハデューム峰」ではなく古い「マハデュム峰」を使用している。

ちなみに国会デジタルコレクションの検索では、「マハデュム峰」は光瑤関係以外の図書雑誌では見つからない。光瑤専属の山名なのである。

もうこうなると、どうでもいいか、と投げやりな気分にもなる。[4]

「シシャナーグ峰」は見つからず

では、「シシャナーグ」はどうか。これはさらにややこしい。

「山」や「峰」は英語で「mount」「peak」などと表記されるが、「Shesh Nag」と検索すると、インド国内で多数の寺院が見つかる。

カシミールに絞ってそれらしい場所をグーグルマップ検索すると、「Sheshnag kaswa Hill」(寺院・礼拝所カテゴリー)が見つかり、山の中腹を指す。「hill」はふつう「丘陵」であって「峰」でないのだが、すぐ近くに「峰」がある。ウィキペディアでは、この場所に近いところに「峰」ではなく「湖」、「Sheshnag Lake」のほうがヒットする。

日本語ではとりあえずシェシュナグと表記すべきか。

Sheshnaag や Seshnag という言葉も見つかり、おどろおどろしいヘビの画像が見つかり、八岐大蛇の神話を想起してしまう。

光瑤は「シシャナーグ(一七〇三五呎)」「高峰シシャナーグ」「シシャナーグ峰」と記している。つまり17035フィート(5192m)のピークを探さなければならないのだが、どうにも見つからない。それに、ホントに「峰」が付くのか否か。

国会デジタルコレクションで簡単にみられる資料では、ヒマラヤブームの時代に「Shisinag」というのもある。

『世界山岳地図集成』ヒマラヤ編(1977年) Shisinag4717m
https://dl.ndl.go.jp/pid/12682296/1/289
『コンサイス外国山名辞典』(1984年)シシナーク Shisinag4717m
https://dl.ndl.go.jp/pid/12149853/1/118
『カシミールの街と山』(1975年)シシ・ナーク(shesh Nag)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12181776

『国会デジタルコレクション』の「送信サービスで閲覧可能」なので
閲覧するためにはユーザー登録が必要です

もはや混乱の極致である。いったいどう考えればいいのか。

「立山」「剱」もそうだった

翻って日本国内の山名と標高の問題を思い起こすといい。

例えば富山県の「立山」という山は有名だが、実は「立山」の名を冠したピークがない。雄山3003m、大汝山3015m、富士ノ折立2999m、という3つのピークの群峰だからだ。それでは分かりにくいので 最近の地図は立山イコール大汝山のピークを指しているが、多くの人々が登山するのは雄山のほうである。「立山連峰」は一般用語で、かつては「立山群峰」という言い方もあった。

剱岳という山は、山名と標高をめぐって一転二転三転した。100年前は公式文書でも「劍山」と表記された。「劒」「劍」「劔」など異体字でさんざん論議したすえに「剱」を使うことになった。明治末の測量結果は2998mだったが、一時3003mと表記されまた2998mに戻された。2999mが確定したのはつい最近の2004年のことである。厳密には2998.6mだということだ。

富山長野県境の後立山連峰になると、明治時代前半まで山名は長野県側と富山県側とで違っていた。針ノ木岳は日本山岳会員によって1910年に名付けられたが、実は江戸時代に越中側で「地蔵岳」と呼ばれていた。

とにかく「山名と標高」調べは一筋縄ではいかないのだ。調査し出すと際限がない。

曖昧さと揺らぎを寛容に認めながら、石崎光瑤カシミールの山旅をたどっていこうと思う。

本論に入る前に、次回は光瑤の紀行文「印度行記」についてその全体像をおさらいしておこう。(つづく)

[1]『印度行記』原本(1919年)を9月3日現在で閲覧できておらず、「マハデュム」の表記と標高記述なしは富山県立山博物館が2000年に復刻した『印度行記』による。復刻する際に標高が脱落した可能性がないではない。「ある時」はほぼ同時期のいずれも本人の紀行文である。詳細は後述する。下記の[4]を参照。

[2]ここではジオコードの問題には立ち入らない。

[3]ヒマラヤ登山の先駆者として取り上げた著作では、徳岡孝夫『ヒマラヤ 日本人の記録』(1964年)がある。サンダクプが中心で、マハデブは出てこない。ヒマラヤ : 日本人の記録 (毎日ノンフィクション・シリーズ ; 1) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
安川茂雄『近代日本登山史』(1969年)では、光瑤のヒマラヤ登山について書いたが、1917年にカンチェンジャンガを遠望したように書いてあるだけで、カシミール周辺での登山には触れてない。Mahadevに相当する山は出てこない。光瑤二度目のインド、すなわち1933年には「コラホイに上り、ハラムークからナンガ・パルバットを眺めようとしたが、悪天候のために果たせなかった」とある。文章の構成上「コラホイに上り」までは成功したのかそれとも果たせなかったのかがわかりにくい。一方、橋本廣氏は「悪戦苦闘の末ついに宿願のコラホイ山頂(五、四四〇メートル)に立った」と書いていて、コラホイ登頂は事実のようだが、『日本登山史年表』(2005年)には記載がない。光瑤の1933年のヒマラヤ登山については今すこしあいまいな部分を残す。

[4]光瑤自身による「Mahadev / Mahadeo」の表記は一定でないが、傾向はある。原著『印度行記』では「マハデュー」9か所、「マハデュ」3か所、「マハデュム」2か所。さかのぼって原著の基になった連載「カシミールの旅」では「マハデオ」3か所、連載「印度山國の思出」では「マハデュー」9か所、「マハデュム」2か所となっている。「マハデュー」が多く、「マハデュム」は誤記または誤植または誤認識であった可能性を指摘せざるを得ない。富山県[立山博物館]の復刻版「印度行記」は校訂段階で「マハデュム」に統一してしまったために、こうした表記の揺らぎが見えなくなっているので注意を要する。「deo」では「デユム」と発音しにくい。
ちなみに「印度の自然美」『芸術』1巻1号(大正7年11月)では「マハデュム峰」、「雪のヒマラヤ山に咲ける種々の珍花」『日本農業雑誌』15巻3号(大正8年3月)でも、「マハデュム峰」、「ヒラマヤ縦談」『山岳美』(大正11年8月)では写真説明に「マハデュ峰絶巓 Mahadeo(3961m)in the Western Himarayas.」とある。(この注は2024年9月12日追記)

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