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(10) 最終章「風雪の山」
ヒマラヤの女神が紡ぐ繭
標高3500メートルを超える湖のほとりに雪が舞う。風はない。先を行く人が霞み、足跡が次から次へと消えていく。
ヒマラヤの女神が紡ぐのかこの千古の糸はわれらの一行を蜘蛛のように巻き、繭のように包んでしまうのではあるまいかと思わるるほどに激しかった。
これは、帰国直後に記した新聞連載にはない記述で、1年後に『印度行記』を編集する際に書き加えたものだ。いかにも芸術家らしい。石崎光瑤はついにシシュナーグ湖の入り口に立った。[1]
◇
現代の巡礼者たちはタニン方面から登って来ると、天気が良ければ、乳緑色の湖面とシシュナーグを囲む山々のパノラマを見ることになる。それは、光瑤が湖の手前で撮影した写真《シシャナーグ連峰》よりも、さらに視界が開けた眺めだ。
https://www.urtrips.com/en/sheshnag-lake-kashmir/#h-best-activities-to-do-in-sheshnag-lake-kashmir
![](https://assets.st-note.com/img/1733228317-chvRMj2PJNutGEVmUeW1AdH0.jpg)
Wikimedia Commons
![](https://assets.st-note.com/img/1733311617-KshBFepNqcCOoI8G5rTMH1a9.jpg)
ウィキメディアコモンズに参考になる写真がある。ちょうど正面には、2つの高い峰に挟まれた氷河とも見られる特徴ある谷がある。地図でみると、2つの峰は4713m峰と4801m峰だ。ただこの2峰を含めてここに写った連峰にはなぜか名前がない。
最も高いピーク、4801m峰こそが、光瑤が目指すシシュナーグ峰なのかと推測したくなるが、それは早合点である。
![](https://assets.st-note.com/img/1733228535-CMsIBqxF1AHNDZ3WTE4ykcmY.jpg?width=1200)
◇
湖の入り口から起伏のある道を歩いて1キロメートル余り。宿営地となる3つの石室があった。
![](https://assets.st-note.com/img/1733312110-3O92ITdxHaj8XnECbu60fepZ.jpg?width=1200)
宿営地の標高は3720m地点と推定される。湖面からの高さは145メートル。グラタバル Gratabal という谷の川が流れ込んでいて、その右岸に位置する。現在のシシュナーグベースキャンプの入り口あたりである。[2]
石室に入ってしばらくすると、雪にまみれたポーターたちも転がり込んできた。煙を出す穴から雪が吹き込んで、薪の上がうっすら白い。暗くなってようやく雪はやみ、少し晴れ間がのぞいた。
5日間の「極地法」計画
ここから先の行程は、人夫を五個の天幕に分かちて一日行程あての間隔に分置して、薪の連絡を保ちつつ前進する企画であるが、この風雪では一行の行進すらも不可能であった。
アッサドと光瑤の計画は、極地法のようなものであろう。ポーターを5つのテントに分けて1日の行程の間隔で配置し、薪を供給しながら前進してシシュナーグ峰にアタックすることになっていた。つまり、この宿営地から5日がかりでたどり着く場所が、シシュナーグ峰の頂上ということになる。
翌5月15日は朝から吹雪だった。なかなかやまない。午前10時、雪崩の音が何度も聞こえた。
ここで光瑤は、宿営地の場所を標高約16000フィート(4877m)と推測を記している。シシュナーグ峰が17,035フィート(5192m)であるなら標高差はわずか315メートルになる。しかしこれだと5日間かかる場所とはつじつまが合わない。実際の宿営地の場所は3720メートル(12,205ft)と推定されるので、1,150メートルもの勘違いを光瑤は記していることになる。[3]
雪が小やみなったの見て、湖を見下ろしに出ると、湖面はもちろん渓流もすべて雪に覆われるほどの積雪になっていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1733230678-K3GVrUZ0SN8A7vFtLj15obRD.jpg?width=1200)
光瑤の一行は結局、5月14日の夕方に到着してから19日の早朝に撤退するまで、4日と半日つまり約110時間、このシシュナーグの宿営地でほとんど身動きがとれなかった。光瑤はこう書いている。
リダルバアレイの高峰シシャナーグの氷河の傍に、雪に埋もれた湖水を眼下に見ながら、四昼夜にわたる大風雪に禍されて、携へたシラカバの枝を焚き、羊を屠りながら、三十人の苦力と共に、苦楚を嘗めた。
外に出たのは、16日早朝に北側の斜面を800メートルほど登った1回きり。この一帯の眺望をみようとザイルロープを持って4人で出掛けたが、雪で視界が利かなくなり途中で断念せざるを得なかった。それはおそらく長くみても3時間程度で、登山らしい登山にならなかったものとみられる。このときの獲得標高は推測するしかないが、この北側斜面の斜度からすれば300m以上は登ったのではないか。4000mを超えて、マハデヴ峰よりも高い地点まで光瑤が登った可能性は高い。
6枚の写真を読み解く
この110時間の滞在中に、光瑤は10枚前後の写真とスケッチを残した。
次の6枚の写真はいずれも宿営地の石室付近から撮影したとみられる重要な記録写真だ。これらの分析によって宿営地の場所が分かり、目指したシシュナーグ峰もほぼ特定できる。
![](https://assets.st-note.com/img/1733232068-EnIMNKh86eTLBtsHUVQb70Xd.jpg?width=1200)
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