第6章第2節 同期生と教師陣
ようやくの難関突破だった。室崎清太郎(のちの琴月)は郷里富山から上京して3年間の受験勉強の末に、東京音楽学校に合格した。地方から東京に出て初めてピアノに触り、音楽を基礎から学び直なければならないというハンディ。幼児期から片足の不自由というハンディも合わせると、3年間の精神的な重圧は大変なものであったろう。その壁を乗り越えたことで道は大きく開けてゆく。
大正2年春、東京音楽学校の予科に入学を許可されたのは、男女各9人の計18人である。明治33年に予科本科制になってから13年目で最も少なかった。ふつう予科には毎年30人前後が入学している。前年の明治45年が36人、翌大正3年が39人だったことからしても、この年はなぜか半分ほどにとどまった。試験が難しかったのか、それとも人材が不作の年だったのか。見方を変えると、大正2年の入学者たちは、少数精鋭教育の恩恵を受けることができたわけである。14年後の昭和2年の雑誌に掲載された「洋楽界を背負って立つ人々」74人の中に、武岡鶴代・古谷幸一・真篠俊雄・室岡清枝・室崎清太郎の5人も名を連ねることになり、結果的には優秀な人材が育つ学年となった。
ちなみに大正2年には甲種師範科に23人、乙種師範科14人が入学している(記録上は仮入学)。そして、この年の東京音楽学校の在籍者数は、研究科20人、本科60人、予科18人、甲種師範科70人、乙種師範科14人、聴講科17人、選科271人の計470人である。
【東京音楽学校 大正2年予科入学生】
尾熊善次郎、孫咸徳、内海謙孝、真篠俊雄、古谷幸一、北原季男、柴祐泰、森乙池崎能婦、太田勝、武岡鶴代、濤川貞江、室岡清枝、宇佐美ため、浅野アイ、下山英、島英代(いろは順)
出身地別に見ると、18人のうち9人が東京、中国が1人で残りは地方である。北陸は清太郎1人だった。生年月日が判明しているのは男7人女3人の計10人。10人のうち琴月は最年長の22歳で、あとは21歳1人、20歳1人、19歳3人、17歳2人、16歳1人、15歳1人。
上の学年である本科をみると、高折宮次・多忠亮・弘田龍太郎・荒木得三・榊原直らがいるが、いずれも清太郎より年下である。中でも、20歳の弘田は、三重県立第一中学校を卒業していきなり予科に合格し、既に本科3年目で卒業年次であった。清太郎は受験勉強の3年間で多くの人に追い越された形になっていた。
ただ同時代に遅咲きの音楽家がいないわけでない。例えば、明治41年に入学した中山晋平(なかやま・しんぺい、1887-1952)と梁田貞(やなだ・ただし、1885-1959)である。中山は島村抱月の書生をしたのち21歳で、梁田も回り道をして22歳で入学をしている。中山は本科器楽部(ピアノ)へ、梁田は本科声楽部へ進み、明治45年にそろって卒業した。2人とも唱歌童謡の作曲を手がけ、清太郎にとっては5年上の先輩にあたる。また、甲種師範科の藤井清水は明治45年に入学した時23歳だった。
東京音楽学校時代の主な同期生(いずれも大正6年卒)
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予科の授業は週23時間で、修身1、唱歌8、器楽3~5、音楽通論1、国語3、外国語3、体操2という内容だった。本科に入ると、1年目は修身1、唱歌3~5、器楽3、音楽通論1、器楽合奏4、音楽史2、国語3、外国語3、体操2の計24時間。2年目は音楽通論がなくなり、和声論2が増え計25時間。3年目は音楽史がなくなり、楽式初歩2で計25時間だった。
清太郎は予科1年本科3年を過ごすことになるが、かかわりのあった教員は20人あまりいる。校長は湯原元一(ゆはら・もといち)50歳。湯原は音楽家でなく教育行政にかかわってきた人物で、明治40年6月に着任し大正6年6月まで9年間、東京音楽学校運営の舵取りをした。着任してまもなく学内には邦楽調査掛と唱歌編纂掛が設置された。
湯原に続く教授陣には、橘糸重(ピアノ)と吉丸一昌(修身・国語)、クローン(ヴァイオリン・唱歌・管弦楽)と島崎赤太郎(オルガン・和声論)らがいる。
橘糸重は当時40歳。明治25年に専修部を卒業してすぐ教職に就き、以来20年というベテランである。幸田延が明治44年9月に退官したのち、女性教授陣の中心にいた。
吉丸も当時40歳である。明治35年に東京帝国大学国文科を卒業し、東京府立第三中学校教員から明治41年に着任した。校長の湯原は第五高等学校(現在の熊本大学)時代の恩師であり、湯原が吉丸を抜擢したのであろうか。吉丸については後に詳述する。
清太郎は84歳で「若き日にピアノを習いし橘先生 作曲をすすめ給えり吉丸先生」という回想の句を残している。
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室崎清太郎とかかわった東京音楽学校教員(年齢肩書は大正2年時)
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