8. 犬をお伴にシナクラ桟道
「この桟橋、すばらしいねぇ。描くんならやっぱり対岸から見ないとなあ。対岸に渡れますか」
「な、なに、この激しい流れを渡れるわけがない。不可能だ」
明治41年秋、石崎光瑤は案内人とおそらくこんな会話を交わしたろう。
光瑤の意思は固かった。「それなら戻って、流れの浅いところで渡ろう」。結局、光瑤の一行は、迂回して対岸にわたり、周囲を観察した。それが文章になって残っている。
流れの緩急、川面の表情をよく表現している。ただ「万斛の雪」が少しわかりにくい。この時は10月中旬、すでに川の水に雪が混じって流れていたのか、それとも谷に残雪があったのか。
結局、光瑤はここで簡単なスケッチと写真撮影をしただけで「虫」を抑えた、という。「虫」というのは湧き上がるような「描きたい」という気持ちのことだ。
思えば、大白川渓谷をドライブしたくなったのもよく似た「虫」の仕業である。
光瑤の一行は下流まで戻って川を渡り、シナクラの桟橋の入り口に立った。
この写真は、明治40年8月、1回目につり桟橋を通過した際、撮影したものらしい。
雑誌『山岳』の紀行文に「(この前通過した時)行進の予定上、写生するの余裕がなく、単にレンズで、同行の河合良成君を画中の人物として撮影した」とある。
下流に向けて左岸側を写したものか。明治40年は、白山から下山時に通過した。2度目、3度目は渓谷を遡行しているので、逆に眺めたことになる。
山岳写真史の専門家だった杉本誠氏はこの写真を石崎光瑤の代表作として取り上げている。
こちらは、昭和9年(1934年)に発行された『飛騨の白川村』(川口孫次郎著)に掲載された「シナクラ桟道」の写真だ。光瑤が撮影した写真とよく似た構図のように見えるが、人のサイズがかなり違う。
一方、明治43年春の旅では、「シナクラの吊桟橋」の記述は比較的短い。
案内人が猟師で、まだ熊と遭遇する恐れがあることから、カメという名の猟犬を連れての旅だった。
光瑤が明治43年5月に描いた新聞挿絵を見る。
桟道のほぼ中央に、旅の道連れだった犬が描かれていて微笑ましい。
(つづく)
表紙写真は間名古谷を渡る県道の橋。